ふらのフラフラコンサート
日里さんとぼくが直接仕切ったものでは一番大きなイベントだった。ことの始まりはFNWL誌に、新しい方法で本物の歌手とコミニュケイトする会の代表としてぼくが書いた「おひまなら来てよね、三上寛さん」だった。 ぼくは三上寛さんのファンなのだ。
その記事の内容はお金ありません、人を沢山集める気ありません、音響の良いステージもありません。つまり、タダで、気の合う仲間だけで、しかも野外で三上寛先生を聞きたいと。もちろん何の反応もありませんでした。失礼この上ないお願いなのだから、当り前です。三上さんの目に触れたかどうかだって確認出来なかった。
しかし、イベントに関するぼくらの考え方は、主催者が楽しめなければやる意味がないということだったので、自分達も一緒に楽しもうと思ったら、アーチストに失礼だけれどこういう形にならざるを得なかった。ぼくらは商売でイベントをやる訳ではないのだから、待つことにした。何かキッカケがあるまでじっと待つことにした。
その間、「みんなの署名で三上寛を呼ぼう」などの企画もやったが、音沙汰なし。
それから一年経ったある日、倉本先生を通じて知り合っていたおすぎとピーコのピーコさんに呼び出された。話を伺うと、三上寛を本当に呼びたいのなら、ピーコさんが渡りをつけてくれると言う。ちゃんと受け入れが出来るのならば、三上寛さんだけではなく、永六輔さん、小室等さん、それにおすぎとピーコさん自身も一緒に富良野でコンサートをやってもいいと。日里さんとぼくはすぐに返事が出来なかった。ぼくらが判断するには、話が大きすぎる。第一ギャラの問題とか、会場、何人くらい集めなくてはいけないのか、皆目見当がつかなかった。
ピーコさんが言うには、ギャラは入場料からすべての経費を差し引いて残ればそれを出演者で分ける、残らなければギャラはいらない。大切なことは永さんをはじめ富良野に来てくれる人達が、富良野に来て心から良かったと思える受け入れをしてさえくれればよくって、人数だって富良野の人が頑張って集めてくれたのが出演者に伝われば、数の問題ではない。ただ、あなた達が損をするようなら、やめなさい、と。何という心遣い。ここまで思ってもらって後には引けない。日里さんとぼくは必要以上に大きく頷いたのだった。先輩達もやれ!と言ってくれた。これで恐いものはない。
さぁ、それからというもの、毎日が戦争だった。イベントといえば仲間うちを少し大きくしただけのものしかやったことがないのに、不特定多数の富良野市民を巻き込んだイベントなんてもってのほかだった。まず 入場券を売らなくてはならない。富良野の場合ぼくらもそうだけど、行きたいイベントがあっても、自分からは絶対買わない。知ってる誰かから言われるまで待っているのだ。感じとしては、選挙に似ている。一人一人、一軒一軒、一店一店、日里さんと回った。
人の情けが身に滲みた。とくに「炉ばた」のママは身に滲みた。炉ばたは富良野で一番人気のある居酒屋で、カウンターの片隅でじっくり一人で飲むのも、仲間でワイワイ飲むのもいいところで、富良野の人はもちろん観光客もよく来る。
「北の国から」にも出演し、いまや富良野の名所。ママとぼくらの付き合いも、もう十年近くなる。そのママが売ってくれた。マスターも理解してくれたとは言え、片っ端からお客さんに売ってくれた。その感謝はいまも忘れない。ママ、ありがとう。
自分でもよく分からないが、ママのようなに協力してくれる人に出会える、つまりそれは出演者やスタッフの人も含めて、誠心誠意物事を進めていると人間として一番尊い「心」に出会える、というのが大きな原動力なような気がする。
このイベントを通じて、接待というか、人を「もてなす」気持ちみたいなものを、ピーコさんをはじめみんなに教えられたような気がする。偉い人という言い方はちょっと違うと思うけど、ぼくたちにとっては雲の上のような人達と、一緒にお話をさせて頂き、一つのものを成し遂げられたことはすごく勉強になった。ともあれ色々な人達の応援で、1,025人の入場者があり、ギャラも思った以上に払えた。結果は、身に余る光栄だった。
翌日、出演者を旭川空港まで送って行く途中に、富良野の観光スポットになっているワインハウスに昼食をしに寄った。食事が終ると、ピーコさんが日里さんとぼくを手招きした。最後に何か怒られるのかと思い、恐る恐る行った。ピーコさんは声をひそめて、「あんたたち、見栄を張っちゃ駄目よ!」と少し怒ったように言った。何のことか分からずににポカンとしているぼくたちの手に、お金を握らせたのだ。支払ったみんなへのギャラの袋から一部お金を抜いて戻してくれたのだった。またまた感激。感激が感激を呼んで、感動が感動を呼んで、日里さんとぼくは感涙に咽びながら、やってよかったと肩を抱き合ったのであった。コンサートが終わり少し経ってから、三上寛さんがFNWL誌のために書いてくれた文章があります。ここで紹介させていただきます。

富良野は美しい街だった。 今年の2月にぼくは永六輔さん、小室等氏、そしてオスギとピーコ達と初めてこの土地をおとずれることになったのだが、白い雪が、堂々としているように思われた。チャバ氏の激しい熱情にも心を動かされた一人である。
コンサートが終って、深夜、腹がへって、街へ出てみた。炉ばた焼き風の一軒のスナックに入って「ラーメンライス」をたのんでみたのだが、ぼくはそこで、東京の深夜スナックとはまたちがった、北方の人間の妙に生温かい不思議な寂寥感と出会った。その時間はぼくにとって、幸福な時だったように思えた。
北海道という所は、ぼくにとっては「外国」である。
歴史とのつながりが、それはまだ「日本」という国から見れば短いのかもしれないけれどヨーロッパやアメリカ。そして、アジアの国々と この地は、さらに遠い過去の時間を共有しているかに見えてくるのである。
それは、津軽の星のように、内面に広がっていく古代。妄想とは異質のようだけれど、澄んだ空や、張りつめた空気は、どこかで世界の歴史と通じているだろうし、また包容しているようにぼくには感じられる。
この地はまさに、何かの中心なのだ。
それをさぐること、それがぼくたちがこれから、幾度となくここをおとずれるための理由であるだろうし、オダジマ、ニッサト両氏を始めとする、そのグループの、何か、存在の証しでもあるのではないのか。
「人間はいかにして生きるべきか」「人間はなぜ生きなければいけないのか」この、今や、手アカにまみれていそうにも思えるテーマは、だが また、ぼく達の目の前に現れてきたのだ。
そのことからぼくたちはもう、目をそむけてはいけないだろう。
その問いに、勇敢に挑戦すること、その問いかけに、執拗にこだわること、それらは愚かしいことではない。
二十一世紀まで、あと十七年。
今富良野は、そのためにあるのだ。
富良野は今、二十一世紀のためにだけ存在しているのだ。
やがてこの街のしてきたことが、ひとつのことの、パイオニアだったということを、世界の人達が知ることになっていくだろう。世界というものは、隣近所のことなのだ。世界というものが、「見果てぬ遠い国」であった時代はもう終ったのだ。
ニーヨークもパリもロンドンもコドマリも、気になる友だちの住む街なのであり、「ドシテルベナ」の街、「ガンベタカリ」で遊びに行ける街なのだ。
だが、そのためには引きつけること。富良野にたくさんのことを、人間を引きつけて離さないこと。そのことが必要だろう。そのことがまず、すべての始まりになることだろう。