[オフィスFURANO物語] no.4
[現在のオフィスFURANO]
現在のオフィスFURANOは「麓郷の森」部門、「フォーラムフラノ」部門、「卸」部門、「企画」部門の4部門をやっている。スタッフは社長のぼく、高橋、妹であり高橋の妻であるまり子、妻のゆきえ、そして社員、アルバイトが数名、総勢10人足らずで、夏の時期になるとアルバイトがこれに数名増える。
「麓郷の森」は前記した通りで、「フォーラムフラノ」は富良野スキー場の近くにあるショップで、事務所もここにある。麓郷の森の「彩の大地館」のコンセプトとほぼ同じで、すべて木で出来ている。「卸」はオリジナル商品を富良野スキー場周辺のホテルやペンションを対象にしている。「企画」は、実は、この部門がオフィスFURANOの中枢をなしているのだが、その業務はオリジナル商品の企画開発、カレンダーやパンフレットなど印刷物の企画制作、写真家・那須野ゆたかさんのプロデュースなどである。
〈オリジナル商品〉
現在のオフィスFURANOは「麓郷の森」部門、「フォーラムフラノ」部門、「卸」部門、「企画」部門の4部門をやっている。スタッフは社長のぼく、高橋、妹であり高橋の妻であるまり子、妻のゆきえ、そして社員、アルバイトが数名、総勢10人足らずで、夏の時期になるとアルバイトがこれに数名増える。
「麓郷の森」は前記した通りで、「フォーラムフラノ」は富良野スキー場の近くにあるショップで、事務所もここにある。麓郷の森の「彩の大地館」のコンセプトとほぼ同じで、すべて木で出来ている。「卸」はオリジナル商品を富良野スキー場周辺のホテルやペンションを対象にしている。「企画」は、実は、この部門がオフィスFURANOの中枢をなしているのだが、その業務はオリジナル商品の企画開発、カレンダーやパンフレットなど印刷物の企画制作、写真家・那須野ゆたかさんのプロデュースなどである。
  • 丸太コースター
    今では笑い話の一つになっているけれど、丸太のコースター作りは大変だった。高橋とぼく、時には那須野さんも一緒に、チェンソーを持って、川の岸に引っかかっている流木を拾ってくる。その流木を建具屋をしているぼくの親父の工場で、ぼくが丸ノコで切り、焼印を押す。押し終ったら、それをビニールの袋に詰めて完成。これをほぼ毎日やっていた時期があった。昼間は川に流木拾い、夜は店を閉めてからノコギリ、焼印、店が始まる前にビニール詰め。
    森のイメージとマッチしたのと、高橋のした焼印のデザインがよかったのと、そしてなによりその当時は商品のアイテムが少なかったせいで、結構売れた。今は流木ではなく普通の丸太で作って貰っているが、商品としてまだ健在だ。
  • ラベンダーBOX
    これも初期の頃から売っているもので、ぼくが気に入った紅茶の箱をアレンジし、中にラベンダーの乾燥した花(ポプリ)を詰めた商品である。木箱は作ってもらい、花は詰めるだけだからいいが、問題はそこからの作業なのだ。セロファンで包んで、送り先などが書けるシールを張って、麻ひもで縛って、小さい荷札を付ける。これが結構面倒なのだ。
    「富良野の香り届けます」がこのラベンダーBOXのコピーで、つまり、このまま郵便で送れるのが「ミソ」で、この一連の作業があって、はじめて成り立つ商品なのだ。この仕事も当初は残業の範ちゅうで、麻ひも縛りは指が痛かった。
    これと同じ発想で、同じ形態の「森の匂い箱」という商品も一時発売していた。ラベンダーポプリのかわりに丸太の切れっ端とクズを入れたものだ。ある日おみやげとして贈られた人から電話がかかってきた。その人は「あのぉ、そちらで商品を入れ忘れたと思うのですけれど、箱に木クズしか入っていないんです」。
    それから少し経ってこの商品は店頭から消えました。
  • ラベンダーのビンポプリ
    会社をはじめて間もなくの頃、札幌に吹き硝子工場があると偶然誰かに教えられ、早速、訪ねていった。そこは社長が40年以上も吹きガラス職人をしている歴史のあるところで、豊平硝子工場といった。何とか、お願いして商品を仕入れるようになったが、商売になるほどの量ではなかった。こちらにまだ資金も力もなかったからだ。
    三年くらい経った頃、ぼくは豊平硝子のガラスビンにラベンダーのポプリを入れたら綺麗だろうなと突然思って、すぐに札幌へ走った。今でもはっきり憶えているが、その日は日曜日で、事務所には製品をつくること以外は全部やっていると思われる奥さんだけが仕事をしていた。もちろん、奥さんにも面識はあったが、無理を聞いてもらえる信頼関係はまだ出来ていなかった。値段のことも、数量のことも何も考えないで、いきなり頼み込んだ。奥さんは引き受けている仕事でさえ、間に合っていないのだから無理だと言った。もっともな話で、ガラスは小樽を中心にものすごいブームになっていたのだ。
    ぼくは富良野のことや会社のこと、店のこと、色々な話をしながら、どうしてもビンポプリが必要なのだと訴えた。そこに、たまたま社長が釣りから帰ってきた。奥さんは、無駄だと思うけど社長に話してみたら、と言ってくれたので、僕はまた同じ話を社長に始めた。そうしたら、人のいい社長は忙しいけれどやれるだけやりましょうと言ってくれた。
    このうちだけのオリジナルのビンに詰めたラベンダーポプリはいまや大ヒット商品で、後で触れる新しい展開の主力になったガラス部門の先駆けになった。

以上3点のオリジナル商品について共通して言えることは、「売れる」「儲ける」という観点から決して発想していないということだ。「面白いだろうなぁ」「綺麗だろうなぁ」「凄いだろうなぁ」、つまり自分の気持ちや感情から商品を思い、そのなかでいま出来ることは何だろうかを考える。
物を売るだけだったら、ある意味では誰でも出来ると思う。売れればいいってもんじゃないんだ。商品に対する"気持ち"が大切なんで、売ることとか儲けることなんて、どうでもいいことなのだ。
丸太を川から拾って焼印を押す。箱を麻ひもで縛って荷札を付ける。豊平硝子の社長に頼み込む。それらのことをする気持ちが大切なのだ。そして、それはお客さんに必ず伝わると、ぼくは信じている。もちろん、伝わる商品が沢山あれば沢山売れるし、沢山儲けることも出来るのだ。
このことはまた、オフィスFURANOの商品に対する基本的な考え方でもあるのだ。ちょっと生意気かな。でも、本当にそう思っています。

〈写真家・那須野ゆたか〉
那須野さんとはパンフレット制作から偶然に始まった付き合いが、オリジナル商品・那須野グッツの開発、那須野常設フォトギャラリー「森の写真館」の設立、那須野さんの写真でイメージされた「彩(いろどり)の大地館」「フォーラムフラノ」の設立、那須野さんの作品を使った企業カレンダーなどの印刷物制作、テレビ・雑誌などへのパブリシティとしての関与、東京での写真展を中心として新プロジェクトの展開などにまで発展している。さらに、これからオフィスFURANOがやろうとしている新事業にも那須野さんはなくてはならない存在になっている。
人には出会うタイミングが大切だと思うけれど、那須野さんとは、正に「びったり」のタイミングだった。
スタジオ撮影の仕事が嫌になって、一念発起して生まれ故郷の富良野を撮るためにフリーになったが、一年も経たないうちに、お金が尽きた写真家。建具屋の仕事が嫌になって、一念発起してオフィスFURANOを設立したが、始めてすぐに、お金が尽きた社長。この尽きた同士が出会ったのだ。
詳しくは以下に、項目別に書いていきます。


・那須野さんとの出会い
会社をはじめて数か月位経った頃だと思うけれど、スキー場のペンションからパンフレットの依頼がきた。デザインは高橋がやって、営業というか細かい打ち合せはぼくがやるからいいのだが、肝心の建物や料理を撮ってくれるカメラマンもシステムも知らなかったし、富良野のイメージを演出する写真を借りる当てもなかった。考えてみれば、ぼくはいつも「出たとこ勝負」の仕事をしている。
たまたま、良くしたもので偶然ある人を紹介してもらうことが出来た。その人Jさんと色々話してみるとプロではないが、シロウトのぼくを信用させるには十分なほど写真のことには詳しかった。実際、料理の撮影をJさんと開始した。しかし、仕事を進めていくと、どうもしっくりいかないし、写真に対する姿勢や出来上がった写真もぼくの思っている「感じ」とはちょっと違う気がした。ここで、まぁイイやと諦めないのがぼくの唯一のいいところで、むしろ「勝負はこれから」と、開き直るのが好きな性格なのだ。勿論、今思うとということで、あの時は弱った。なにしろ注文がきた初めてのパンフレットだったのだから。失敗したらもう二度と何処からも仕事はこないだろうという危機感があった。
前段が少し長かったけれど、いよいよ那須野さんとの歴史的出会いの話に入ります。ちょっと違うんじゃないかと思った料理の写真を、Jさんがアルバイトをしている店で見ているところに、偶然、那須野さんが現れた。写真を見ている二人の良くない雰囲気を察した那須野さんはチラッと写真を見ただけで、たいして広くない店の奥の席に座った。
うまく撮れなかったとJさんも感じていたのか、いきなり那須野さんに向かって「僕の代わりに、料理の写真撮ってくれないかい?」と言った。Jさんは那須野さんを知っていたのだ。ぼくはJさんには悪いが内心ホッとして、那須野さんを見つめた。そうしたら、意外にあっさりOKしてくれた。
後で、那須野さんにこの時のことを訪ねたら、撮影とオフィスFURANOの話はすでにJさんから聞かされており、那須野さんなりに「心配」していたそうだ。たまたま見た料理の写真が心配していた通りだったので、知りもしないオフィスFURANOだったけれど同情してしまった。そんな心境になったところに、Jさんに頼まれたので、反射的に返事をしてしまったそうである。縁とは異なものである。
さぁ、一緒に撮影したら、全然違うのだ。正に、プロ!っていう感じで、てきぱきと仕事を進めて行く。写真の仕上がりも完璧だった。シロウトの高橋とぼくで始めたパンフレット制作は出来上がってみると、少なくても富良野でそれを職業にしているところよりは数段良かった。この仕事で弾みがついて、その後他のペンションからも何軒か注文がくるようになった。
しかし、この時はまだ那須野さんを「写真家」として正当に評価した訳ではなかった。なにしろ、こちら側には写真を評価する基準がなかったのだから仕方がない。ただ信用できるイイ人という評価はこの仕事のある一枚の写真で確立した。その写真は、高橋が「富良野の街のイメージ写真に夜景を使ってみたいなぁ」と何気なく言ったことから始まった。高橋にしてみれば、ちょっと小高いところから、ちょっとパチリとやればすむと考えていたと思うし、ぼくもそう思った。何日かして那須野さんは夜景の写真を持ってきた。高橋は大喜びして「これはきれい。これはきれい」と勇んでトリミングしたが、何処で撮ればこんなアングルになるのか不思議に思って、那須野さんに聞いてみた。
聞いて驚いた。今は使われていないジャンプ台のてっぺんから撮ったと言う。夏に歩くだけでも大変なのに、雪があったからスキーを履いて登らなくてはならない。重いカメラ機材を背負って、ランディングバーンそして急角度の滑走斜面。30分以上はかかるし、しかも夕暮れまで待たなくてはならない。
那須野さんはぼくらが写真や印刷物に関してシロウトなのはすぐ分かったはずだから、手を抜かないまでも、プロとして適当にやることは出来たと思うし、普通はそうするのが当然だと思う。ギャラだって最低だったのだから。しかし、那須野さんは手を抜かなかった。抜かないどころか、やれるギリギリのことをやってくれた。
那須野さんを考えるとき、写真や作品のことより、夕暮れのジャンプ台のてっぺんで寒さをしのぎながら、じっと佇んでいる那須野さんの姿が、まず最初に眼に浮かぶ。それは、出会ってから十年近く経った今も変わらない。

・オリジナル商品(那須野グッツ)
那須野さんの作品の最初の記念すべき商品は一枚150円の「フォトハガキ」だった。最近流行の家族や子供のカラー写真を使った年賀状と同じ仕様のもので、10種類作った。これだと絵葉書などの印刷物と違ってリスクが少なく、「売れなかったら売れなくてもいいや、とにかく一度何かやってみよう」と始めた。この頃はまだ那須野さんの作品がどう評価されるのか、まったく見当がつかなかったし、自分達でさえ善し悪しを判断する自信がなかった。
リスクが少ないと言っても、あの時の会社の経済状態から考えれば1万円でも決して小さい額ではなかったから、制作費5万円はちょっとした「冒険」だった。このフォトハガキは今でもそのままのデザインで、種類を増やして売っている。
こんな商品でも発売当時、例の上川版に載せてくれた。

見出し 「新しい富良野表現」地元写真家が撮影・オリジナル絵はがき (昭和59年5月11日)
【富良野】富良野の大自然のすばらしさを地元写真家が撮影したオリジナル絵はがき=写真=が近く売り出される。
これまである富良野の絵はがきとは一味も二味も違う内容。観光客はもちろん、地元市民の間にも反響を呼びそうだ。
写真を撮影したのは富良野で生まれ、現在、中富良野に住んでいる那須野ゆたかさん。五、六年前から富良野の四季を撮り続けており、その対象も『地元の人間も見逃したり、気づかないような風景』。有名なところは少なく、ごく平凡な風景のなかで、『自然が与えてくれた"色"のすばらしさ』を表現しており、現在、拓銀富良野支店で、『彩(いろどり)の大地』と題する写真展も開いている。
今回の絵はがきは、富良野の総合案内所『オフィスフラノ』が那須野さんに『富良野を知りつくした人間で、手づくり、メイド・イン・フラノのものを作りたい』と呼びかけて実現した。
十枚一組で、八幡丘、麓郷の丘陵地帯など富良野のイメージを代表する景色の春夏秋冬が選ばれており、俗に言う観光名所が入っていないのが特徴。那須野さんの最近の作品のなかから自信作ばかりを集めている。
また、絵はがきといっても写真は印刷ではなく、ネガから一枚一枚に焼きつけるオリジナルプリント。『はがきというより、ミニポスターとして部屋のインテリアにもなるものに仕上げた』(オフィスフラノ)という。
値段は一般の絵はがきより高いものの、新しい富良野のイメージ商品として人気を呼びそうだ。

フォトハガキが好評だったことから次々に商品を開発していった。3種類の絵葉書(10枚一組)、10種類A全判ポスター、写真集「彩の大地」、卓上ポスター(8枚一組)、額付きオリジナルプリント、ビデオ「彩の大地」などは今のオフィスFURANOの主力商品になっている。

・森の写真館
麓郷の森の項でも書きましたが、この4.5坪の小さなギャラリーが写真家・那須野ゆたかを表現する拠点になり、なおかつオフィスFURANOの方向を決定することになった。
このギャラリーをもっと大きく建て替えればいいと言う人がいるけれど、ぼくはこの広さに多少のこだわりを持っている。しかし、「4.5坪」に意味はまったくない。
お金が無いのに、どうしても森の写真館を建てたくて、形になる最低限の見積りを出してみたら、たまたま4.5坪だったに過ぎない。その最低限の見積り額すら会社にはなくて、日里さんに頼んでお金を出してもらった。ぼくは、無いなら無いなりに、ほんとに何にも無かったら人にお願いする、このことにこだわっている。
つまり、出来上がった「物」なんてどうでもいいんで、作りたいという「気持ち」が大切なんだと。その気持ちが見る人に通じるんだ、と思っている。

 見出し 『森の写真館』オープン(富良野・麓郷の森) (昭和59年9月14日)
      きょうから一般公開 丸太造りフォトギャラリー

【富良野】今年七月にオープンした『麓郷の森』に、丸太造りのフォトギャラリー『森の写真館』が完成、きょう十四日から一般に公開される。富良野に生まれ、富良野の自然を撮り続けているカメラマン、那須野ゆたかさん(29)の常設ギャラリー。観光客はもちろん、地元の人も富良野の自然のすばらしさを再認識する場になりそうだ。
那須野さんは東京で修業を積んだあと、六年前に旭川に戻り、道内各地で風景写真を撮り続けていたが、『知床とか摩周湖のように単なる自然だけの美しさだけでなく、自然と人間の生活が、微妙なバランスを保っている富良野の自然にこだわって』と、昨年、旭川での職を投げ捨て、生まれ故郷の富良野に戻って、撮影活動を行っている。
その対象は地元の人間でも見逃したり気づかないような風景で、『自然が与えてくれた"色"のすばらしさ』を表現しており、今年五月にはオリジナルプリントの絵はがきを発行、好評を得ている。
今回の写真館は麓郷の森が那須野さんのために建設したもの。丸太造りで、約十五平方メートル。常時十枚前後の写真を展示する。麓郷の森では今回の写真館について『富良野の魅力は、他の観光地のように物や施設にあるのではなく、自然自体が持つイメージ。そのイメージを壊さずに富良野をアピールするものとして写真の位置は高い』と話しており、また、滞在期間の短い観光客に四季それぞれの素晴らしさを訴えたい、という狙いもあるという。
若いカメラマンが常設のギャラリーを持つというのは異例のこと。那須野さんはオープンを前に、『あるがまま、素直なギャラリーにし、通りすがりの人が気楽に立ち寄り、写真を通じて富良野との"かかわり"を持てるスペースにしたい』と話している。

・写真集「彩(いろどり)の大地」
森の写真館の評判も上々で、フォトハガキも思っていた以上に売れて、那須野さんの写真に対しても正当な評価が幾分出来るようになってきた。ぼくはどうしても写真集を作りたくなった。ちゃんとした出版社にアプローチをする話もでたが、それは時間もかかるし、門前払いされるのもシャクなので、自分達の手で全部やろうと決めた。
例によって、お金がない、ルートがない、知識がない。まず、高橋夫婦に相談したら、うちの会社はまだ、売れるか売れないか分からないものに何百万の大金を使うほどの規模じゃないからやめるべきだと、けんもほろろ。
考えてみれば、友達、知人に無理矢理売りつけたってせいぜい五十冊売れれば精一杯。那須野さんに話したら、親戚に頼べば五十冊はさばけると自信満々に答えたが、合計百冊ではどうにもならない。店頭で「売れる」発想はあの時はまったく無かった。写真集を買う奴なんているわけがないと、確信していた。でも、出したかった。商売的というより、那須野さんとの仕事を進めるうえで、写真集は強い武器になるし、よりどころになると思ったからだ。
 また、日里さんの登場である。高橋夫婦に反対されている事情を話し、出版するとしたら自分の我がままになってしまう。社長として絶対に失敗するわけにはいかないので、もし全然売れなくて会社の経理が圧迫された時には、買い取ってほしいと頼んだ。
日里さんは、那須野さんに関してのことには協力するよ、と言ってくれた。この一言から写真集作りは始まった。やると決めたら、高橋夫婦は何も言わずに積極的に取り組んでくれた。もちろん、日里さんとの話を教えたのはずっと後になってからだった。

 見出し 『富良野を彩る自然と人』写真集に (昭和60年6月5日)
      那須野さんの撮影作品 オフィス・FURANO

【富良野】富良野を彩る自然と人を一冊にまとめますー。富良野の総合案内所、オフィス・FURANOは七月に地元在住のカメラマン、那須野ゆたかさんの写真集を発行する。
 那須野さんは麓郷の森の"森の写真館"で常設展を開いているほか、オフィス・FURANOからフォトはがき、絵はがきを発行している。いわゆる名所でない富良野の風景を撮り続け、色彩を大切に、また、かすかに人々の営みが見える作風が好評だ。
写真館、絵はがきではこれまで五年以上にわたって見つめてきた富良野のほんの一部しか紹介できないこともあり、今回、写真集を発行することになった。
写真集はA4判変形サイズで百ページ。那須野さんが撮りためた風景写真のなかから選んだ八十枚を中心に、"富良野の人"にもスポットをあてたのが特徴。那須野さんは『富良野の自然の魅力は自然そのものではなく、必ず"人"があって成り立つ。自然と同じように、人に富良そのものを感じる』といい、那須野さんがこれまで出会って、『富良野を感じた人』が二十近く登場する。
また、オフィス・FURANOの強い希望で、これまであまり知られていなかった原始ケ原の美しさを一コーナーを作って紹介する。人と原始ケ原は、写真集の発行が決まってから那須野さんが精力的に撮影したもの。
七月一日に発行予定で、東京、札幌を含め、当初は三千部を印刷、販売する。レイアウトはオフィス・FURANOの高橋秀男さん。富良野を知り尽くした人が撮り、作る写真集だけに、反響を呼びそうだ。
初版はモノクロの「フラニストたち」が載っていた。ぼくがフラニストにインタビューをし、那須野さんが表情を追った。この仕事は面白かった。カメラを意識しないでと那須野さんから注文されても、みんなはついついカメラを意識してしまう。被写体がシロウトならインタビュアーもシロウト。やっていて感じたことだが、カメラに対する反応の仕方にその人の性格やものの考え方などが出てくる。ぼくの結論として、年を取れば取るほどいい顔に写り、若い人はどんなにハンサムでもそこそこの顔にしか写らない。「年輪」という言葉をちょっと噛みしめた。"じっちゃん"と愛称される井上のじっちゃんの顔の良かったこと。現在発行している第4刷にはフラニストのページがなくなっているけれど、機会があったら見てほしい。
発行当初は新聞、雑誌などにかなり取り上げられ、三人揃って生まれて初めてのテレビ出演も果たした。NHKの朝のニュース番組の中で約3分間オンエアーされたもので、富良野の若者三人が「まちづくり」の一環で富良野の写真集を自分達で作ったという内容だった。
結果的には今までに、予想もしていなかった冊数が売れ、日里さんに迷惑をかけないですんだ。そして、この写真集のおかげで勢いがつき、ビデオ「彩の大地」制作、大手生命保険会社のカレンダー「彩の大地」制作、東京での写真展と続いた。