[オフィスFURANO物語] no.5
[現在のオフィスFURANO]
・ビデオ「彩の大地」

何かの拍子に富良野のビデオが出来ないだろうか、という話になった。早速、那須野さんと二人で電器屋に行った。そこの人に本格的に撮影するには、機材のレンタル料やスタッフの賃金に多額のお金がかかるから無理だと思うけれど、いまのホームビデオはかなり高いクオリティがあるからホームビデオで撮ったらいいと言われた。ぼくらは素直に、そうかホームビデオか、とその線で色々調べはじめた。調べていくうちに、ホームビデオのクオリティがいくら高くなったって、所詮はホームビデオという結論になった。当り前と言えば当り前だけれど、あの電器屋のクオリティって一体何なんだと、二人でムッとした。
しかし、いつもの通り、ここからが頭の使いどころなのだ。たまたま富良野に戻って来た友達、ミニコミ誌にも鮒志田良の名前で書いてくれていた西本が、札幌で学校関係の仕事をしていたのを思いだした。ビデオに関する学校がないか、あったらそこを紹介してくれないかと頼んだ。うまくしたもので、「北海道スクールオブビジネス専門学校」に放送芸術学科があり、そこの人を良く知っていると言う。
すぐ、札幌に走った。担当の先生に、テープ代や交通費、宿泊費などの実費はすべて当方で負担させて頂くので、機材と生徒を実習という形で協力して頂けないかと提案した。結構難しいだろうなと思っていたが、割と簡単に承諾してくれた。もちろん著作権はこちらにしてもらった。
まずは那須野さんの「取材ノート」を読んで下さい。

「富良野のビデオだって!おもしろい!」 '84年、秋の雨の日の夕方、麓郷街道を富良野に向かう車の中で、そんな話になった。
以来、電器屋を歩きまわったが、ホームビデオではハナシにならず、かといってプロに頼むお金はあるはずもなく、結局は夢に終ってしまうと「楽観」していた。 '85春、しかし、突然その話は具体的なものとなってしまい、夢を語るようなわけにはいかなくなった。専門学校のビデオ科の先生と生徒が協力してくれることになったのだ。
そして、 '85年8月、そのスタッフ一行6名が麓郷の森にやってきた。18才の学生5名、先生1名、これで全部だ。学校に入って4ケ月。2、3度カメラを触ったことはあるという。ありがたいことに、ズブの素人が社長と高橋さんを含め、みごと9人も揃ったわけだ。肝心の僕は、ともかくも夢のハナシだけにしておけばよかったものをと、18才の学生を見ながらずいぶん悲観的だった。だいたい一番の素人が指示を出す僕なのだから始末におえない。こんな連中に金を出す社長の心臓はどんな仕組みになっているのか。
夏は朝2:00に起き、夜明けには現場へという毎日で、寝るのは23:00過ぎ、睡眠は平均2、3時間。朝食も昼食も車の中でお湯を沸かしてカップラーメンとおにぎり。とりあえず、いっぱい撮っちまおうという気持ちが仮眠も喫茶店も許さなかった。
初日はまず、どのような機械なのか試してみなければならなかった。夕陽は紅く写らないという先生の話は違っていたし、露光もマニュアルで使ったほうがおもしろい。なにより、真昼の白バランスのまま朝も夕も撮影することの意味を理解してもらうのに四苦八苦した。
富良野は盆地なので、夏は暑く冬は寒い。夏に33度Cになった日があって、ロケ用のワゴン車はオンボロだったが、それでもクーラーがついていて楽しみにしていた。それなのにスイッチを入れたとたんヒューズが飛んで使いものにならなくなった。その暑さの中、肝心な時にクーラーが役にたたないと思っただけで無性に情けなくなった。ただのオンボロワゴン車は砂利道を走る度に蒸し風呂になった。
何度やってもOKが出ず、車の上でカメラを振る学生がヤケになつている。パーンがうまく出来ないだけのハナシで40秒のシーンに2時間以上つき合っている。真夏の太陽は彼の首を真っ赤に腫れあがらせ、涙のような汗も見えた。
冬のマイナス25度Cの真っ暗い朝、誰を恨んでもはじまらないが、この暗さと寒さの中、外へ出て行かなければならない自分達がどうしても納得できず、とりあえず言い出しっぺの社長と自分達の前世を罵って、気合いを入れる。どんな善意を持ってしてもあのシバレル真っ暗な冬の朝を許す気になどなれるはずがない。午後に陽がさして冷え込む気配の時は、夕方めがけて出かけていった。高く晴れた天には半月があってガーンとシバレル夕暮れになった。雪の丘を膝まで埋まりながら移動した。肺の中がつき刺さる冷気と心臓の音で痛かった。
移動中にはみんな眠っている。ここで眠らせてくれれば人生のすべてを渡してもかまわないという気にさせる。記憶にない街や信号が幾つもある。自分がいま何処へ向かおうとしているかさえはっきりしないまま、手足が勝手に反応して、まるで自分の棺桶を運転している気分だ。
とても自分が自分の意志でその場所へ向かっているようには思えない。何か大きな力があって、その中で僕らは動かされていたような感じがしていた。
最後まで要領がつかめず、いつも寝不足で言いたいことは通じず、パーンもズームもままならない。スタッフは学生だし、僕らは素人だったが、ともかくもこれが出来なきゃ全員デクノボウだと言い聞かせて、一年間、40日余り、富良野周辺を飛びまわった。

那須野さんの悪戦苦闘のおかげで曲がりなりにも映像の方は撮り終った。次は「音」である。ここでまた、偶然が作用した。ぼくの中学校の同級生に浜田均というジャズヴァイビストがいるのだけれど、人伝に教えてもらった電話番号を押してみると、本人が出た。事情を話して、富良野で子供時代を過ごした浜田に是非とも音楽をつけてもらいたい。しかも、どうやったらビデオに音がつくのかも分からないから、すべて浜田が考えてやってほしい、もちろんお金が最もかからない方法でと。いくら同胞のよしみとは言え図々しくお願いした。
浜田は作曲、ミュージシャン集め、演奏、スタジオの手配、スケジュールの調整、ギャラの配分などすべてをやってくれた。ぼくがやったことと言えば、少ない予算を渡すことと、スタジオの片隅で那須野さんと一緒にただただ感動しながら、演奏を聞いているだけだった。

・浜田均製作ノート

15年もの間、富良野は生活の風景でした。空想遊びが好きだった頃、その風景はトムソーヤの冒険の現場だったり、アンが花の環をつくる花畑だったのです。また、その反対にこの親は本当の親だろうかと思いながら見た山や、好きだった女の子と同じ意味をもった川面、教師とやりあって悔しい思いをした帰り道など、情況と一体化してしまう風景でもあったのです。
富良野を離れてそんな生活も忘れてしまって、日々生かされている状態のころ、私はパノラマの様な夢を見ました。夢なので時間も空間もめちゃくちゃで「何、これは」と夢を見ながら自問していたのを覚えています。目が覚めてドーンとした頭で、なんだ、今のはと思いました。それは明らかに富良野だったのです。ショックでした。今頃なんでこんな夢を見るんだろう。しばらくは、それを考えていました。その時の私は音楽を職業としていこうと決心したものの親との兼ね合いを考えて、どうしようかと思っていた時期でした。それだけに、この浮世離れした夢のおかげで「そうか」と、何の関連もないのに、自然と心は落ち着いたのでした。それ以来、この夢をひきずりながら音楽活動をして来た様に思います。でも決してそれは具体的な、どの風景というものではなく、いわば、意識のエーテルの様なものだったと思います。音楽を職業とすると必然的に発生するアカにまみれながらも、何かあるごとに自分が潰されないための原点の様にしてきたのだと思います。
ところが、どうでしょう。中学の同級生で現在、オフィスフラノの社長であるところの小田島さんが、富良野の風景をビデオテープに録画して送ってきたのです。これはあの夢以来のショックでした。なんだ!これは!しかもこれに音楽をつけてくれだと。時間が経つにつれて、どんどん形のないものになっていった私の風景を「おまえはこんな具合いに思っていたんだろう」と、ズボシをつかれて、顔色をなくしてしまったのです。しかもカメラマンの那須野さんの息づかいが、どっしりと伝わってくるではないですか。「これは、まいった」。自分以外のものが音楽をつけてはいけないとすぐ思いました。原点である夢に書かされたモチーフは、この10年ぐらいにずい分たまっていたし、これが自分の待っていた仕事だとすぐ思いました。
それからの2ケ月間は、スケッチに色付けする作業でした。その作業の楽しかったこと。しかも今まで音楽活動してきた中で、彼ならと思う人に声をかけたところ、ビデオを見て感激して、ピアノの佐山雅弘、フルートの中川昌三、ベースの吉野弘志がすぐに参加してくれました。彼らは今の私にとってかけがえのない音楽仲間で、このビデオを見て「やろう、やろう」と言ってくれたのは何よりも嬉しい事でした。佐山雅弘は一応ジャズピアニストとして通っていますが彼にレッテルをはるのは失礼だと思えるほど才能豊かなピアニストです。中川昌三は現在、東京芸大の講師をしながらジャズの活動もするという、音楽性豊かな、現代音楽には欠かせないフルート奏者です。吉野弘志は芸大卒業後加古隆さんなどと活躍するするベーシストで、彼はこれからのジャズベース界に波乱を巻き起こす人です。
さて、実際に音を聴くとこれらの楽器以外の音が聴こえますが、これはシンセサイザーの音です。実は、このビデオの音楽を作る前から佐山雅弘と山貫憲彦と、ピアノ、シンセサイザー、ビィブラフォンというトリオを作って活動を始める話が持ち上がっていました。山貫憲彦はそのシンセサイザーを操作する神谷スタジオのコンピューター音楽技師なのです。今回の音作りで彼の力は絶大なものがありました。それにも増して神谷スタジオ主であります神谷重徳さんの協力なくしてはこの音楽は出来なかったのです。神谷さんはこのトリオに創造的な期待を寄せて下さって、まず、最初の仕事になってしまったビデオの音入れに協力を惜しまなかったのです。心から感謝いたします。
という訳で、 '87年の初めからこんなに嬉しい仕事が出来て、やっと自分の原点と音楽の一致を見ることができました。
小田島さん、那須野さんありがとうございました。

この仕事は「力仕事」だった。「どうなるか分からないけれど、やるだけやってみよう」と始めたこの無謀な計画も一応の完成をみた。全編約55分。何もかも初めてのことばかりだった。撮影、札幌のスタジオを借りてのテープ編集、音楽。しかし、誠心誠意まじめにやれば、ちゃんとした形になるという、一番大切な「信念」をこの仕事を通じて、少しではあるが会得したような気がする。事実、これ以降の仕事をみても、この「信念」が支えになっていると思う。計算してやれることは何もない。計算しきれない「何か」が加わったときだけに、一つのことが成り立つのだ。この「何か」を手に入れる方法は、誠心誠意まじめにやること以外にない、と思う。
このビデオが出来上ってから、以前旭川局に勤務していた人に会いに渋谷のNHKに行った。その人には何かとお世話になっていて、「今、こんなことやっています」という様な話を年に何回かさせてもらっていた。この時も色々なことを話した後、帰り際にビデオを置いていった。それから何日かして、電話がかかってきた。NHKの衛星放送に使いたいと言う。仕事の時間が空いて自分の課のテレビで見ていたら、たまたま衛星放送担当の人が来て、「これは、使える」と言ったらしい。
一時間番組だったので、オリジナルより少しカット数は増えたけれど、ほぼ同じ内容のものが5日間、「富良野の四季」として"全国"に流れた。音楽はオリジナルではなく、回毎に替わっていた。スピーディワンダー、ディオンヌワーウイック、サイモンとガーファンクル、パットメセニー…。これはこれで結構良かった。
放映されてから3年経った 昨年に今度はNHK経由でビクターから問い合わせがあった。こちらが撮ったすべてのビデオを再編集し、クラッシツク音楽と組み合わせて発売したいと。少し迷ったが、日の目を見ないテープも日の目を見ることが出来るし、オリジナルとは趣旨が全然違うこともあって、話を進めてもらった。現在、音楽健康法「心のリラクセイション」「創造力と気を高める」というタイトルで二巻売り出されている。
オフィスFURANOで制作したビデオがもう一本ある。「小樽」のビデオである。後でも書きますが、那須野さんは富良野の風景写真をベースにここ数年、他の街や海外も撮り続けている。小樽はその最初に手掛けたもので、銀座で写真展を開催し、テレビや雑誌にも取り上げられた。ビデオもその流れで作ったもので、富良野のビデオと同じ方法で完成させた。ただ音楽はジャズピアニストの大口純一郎さんがすべてやってくれた。大口さんとは演奏旅行で富良野にいらした時に知り合い、その後何度か東京のライブハウスで会う機会があって、お互いの気持ちが通じあうようになっていた。小樽のビデオのことを話したら、すぐ引き受けてくれた。作曲、演奏、構成、すべてを。浜田の時もそうだったけれど、この時も「俺は一体、なんなんだ!」と自分に対し何回も問いかけなければならないほど、嬉しかった。
札幌のスタジオに現れた大口さんは、いつものように漂々としていた。大口さんは各場面のテーマはある程度決めているけれど、ほとんどはテレビ画面を見ながら即興で演奏すると言った。ビデオをセットして、演奏が始まった。ここでもまた、ぼくの仕事は那須野さんと一緒に、スタジオの隅で感動しながら聞いているだけだった。その演奏の淒まじいまでの緊張感は、今までにぼくがまったく経験したことのない種類のものだった。ほぼワンテイクで録音が終了した。正に、神がかり的な演奏だった。

音楽も入り、ビデオが出来上った後に、大口さんに書いてもらった、タイトル「雪風桜花」の文章を読んで下さい。

春の雪。淡いけれど大粒で、吹く風に舞ったり、風が弱まったときはただただ上からたくさん降ってくる。空全部から降ってくる。 
時刻は真夜中の十二時。河べりの桜の木々にさしかかると、闇の中桜の花が、舞う雪を感じて息をひそめている。雪はしだいにふえ て、吹雪が容赦なく桜の木をつつんでしまう。ところが風向きが変わった次の瞬間、見事な桜花の色の吹雪がゆっくりと、ながーく吹く。この世の眺めとは思えない。あっと思って空を見上げると、闇の中からなおいっそうたくさんの白い綿雪が吹いてくる。気がつくと今度は自分がさそわれている。この雪のトンネルを上がっていくと、「時空ヲ越エテ天ニ至ル」…………
この絶妙を見せてくれた自然、感じさせてくれた自然に大感謝!勇気づけられました。 人はいつか死ぬが、桜や雪と同じく人も、自然の子。文化をのこすのも人間。
時空の過客がひととき想いを馳せる街、小樽。

小樽のビデオもNHK衛星放送で放映された。

・カレンダー「彩の大地」
この仕事も偶然から始まった。ふらのフラフラコンサートの時にお世話になってから、那須野さん共々お付き合いをさせて頂いている日本エアシステム(JAS)、当時は東亜国内航空の旭川支店の三枝さんから電話がきた。以前旭川の損保会社に勤めていた友人が、東京の外資系生命保険会社に転職し、カレンダーを担当する課の配属になった。今、カレンダーの作業を進めているのだがいい写真がない。そこで、たまたま旭川にいたとき見た那須野さんの写真を思い出し、相談されたと言う。
その外資系生命保険会社に電話してみた。乾いたそれでいて暖かいエリートっぽい声がこちらの質問を的確に判断し、丁寧に応えてくれる。東京の一流会社の人と同等に仕事の話をしている自分に感動と興奮を覚えながら、ぼくはあつかましくも、フィルムをただ貸すだけなら断ります、デザイン、印刷、納品、つまりすべてをこちらに任せてくれるのなら、お願いたしますと言ってしまった。どうして、こう強気になれたかと言うと、東京での写真展も決まり、感じとして那須野さんの富良野の写真は何処かから必ず引合いがくると思っていたからだ。
とにかく、那須野さん、高橋、そしてぼくの三人は本社が入っている神保町のビルを見上げることになった。那須野さんが「社長、帰ろうよ」とまず弱音を吐き、高橋の唇が乾いた。ぼくはあくまで強気だった。自分は"社長"だ、ここで怖気づいてはならない、と自分に言い聞かせながら、受付で名前を記入し、エレベーターに乗った。着いた5階のフロアーの廊下は少し毛足の長い絨毯張りだった。この絨毯に那須野さんが躓いたという話は、後で聞いた。
通された応接室が広い。皮張りの黒い椅子が大きい。高価そうな置物が置いてある。窓から見える東京が霞んでいた。まるで、テレビドラマに映し出される応接室そのままだ。やがて、電話で話した櫻井課長が部下を一人連れて部屋に入ってきた。電話のイメージ通り櫻井さんは、正に東京のエリートという感じが漂っていた。
「高橋君、弊社のコンセプトを説明しなさい」、平静を装ったぼくは威厳を持ってそう言った。高橋は前もって用意してきたプレゼン用、画用紙に写真を張り付けたものを持って説明し始めた。「ガサガサッ、ガサガサッ」画用紙を持つ手が小刻みに震え、声はうわずっていた。
結局は要求通り、うちの会社ですべてを引き受けることになったが、後日、他の数社から出されていたプレゼン用のものを見て驚いた。パネル張りで、しかも有名な人の写真や絵が使用され、レイアウトもきちっとしていて、日付の文字には色までついていた。
せめてパネルにすることだけでも知っていたら、高橋の震えは気にならなかったのにと思ったが、後の祭りだった。

見出し 富良野の四季がカレンダーに (昭和61年12月11日)
    地元在住の那須野さん撮影

【富良野】地元在住の写真家那須野ゆたか(31)の風景写真が、生命保険会社の六十二年版オリジナルカレンダーとして登場した。富良野沿線の四季の美をあまさずとらえた感性と、地元企画会社の努力が中央の広告業界でも認められたもので、その若々しい感覚が都会人を自然回帰へ誘いそうだ。
カレンダーを作ったのは今夏、米国生保業界大手の進出−として話題を集めて開業したエクイタブル生命保険(本社・東京)。同生保は今秋、来年用カレンダーの企画を広く広告代理店などに募集したが、富良野市内の企画会社・オフィスFURANO(小田島忠弘代表)も応募。地元に居を構え富良野の自然を追い続けている新進フリーカメラマン那須野さんに働きかけ、ここ数年間に那須野さんが撮りためた中から一−十二月の季節に会わせて十二枚の作品を選び抜き、月めくりのカレンダーにまとめ上げた。
出来上がった「彩の大地」は、A2判の画面に麦畑やカラマツ林の透明感あふれる光景が、ダイナミックに配されている。富良野ならではの豊かな自然風土を素直にとらえた視線に、オーディションでも好感が集まり、各大手代理店の自信作を押しのけて金的を射止めた。同生保は一万一千部を印刷、顧客などへ配付している。
那須野さんは自然と人間の営みが溶け合う故郷・富良野の風土に魅せられてこの道に入り、最近は小樽、札幌にも活動の舞台を広げているだけに「今回のカレンダー採用は本当にうれしい」と手ごたえを感じている。年明けにも拓銀富良野支店でカレンダー原画展を開く計画もあり、小田島代表は「カレンダーが富良野の全国的なイメージアップにつながれば…」と期待していた。

カレンダー制作どころか、プレゼン(広告業界用語で、企画案の提出をするなどの意味)のやり方すら知らなかったのに、出来上がってみると、すごく評判が良かった。エクイタブル生命が雑誌などでカレンダープレゼントを実施したら、山のような応募があった。那須野さんの写真と高橋のデザインが良かったこともあるけれど、やっぱり「富良野」の人気に負うところも大きかったような気がする。
1987年から始まって今年まで5年間連続して、そして来年度も、エクイタブル生命のカレンダーを制作する。毎年4月号に全国のカレンダー特集をする「コマーシャルフォト」誌にもカラーで毎年載った。企画制作=エクイタブル生命保険+オフィスフラノ、AD=高橋秀男、P=那須野ゆたか。カレンダー作りの参考にしたコマーシャルフォト4月号に、次の年には自分達のカレンダーが載っていることの快感は、今も忘れない。
正直なところ、高額にのぼるこの仕事にかなりのプレッシャーはあった。第一に大手印刷会社がうちのような訳の分からない小さな会社の仕事を引き受けてくれるのだろうかという、危惧があった。最低でも、印刷代の先払いは言われると覚悟していた。そうなると資金繰りが問題になる。ところが、印刷会社はお金のことには何にも触れずに、むしろ積極的に応援してくれる姿勢をとった。事実、刷り上がりの色についてのこちらの無謀な要求にも、少しムッとしながらも何度もやり直してくれた。
時代が変わりつつあると言う実感がこの時もあった。会社の規模とか年数とか格などはまったく関係なくはないけれど、重要なのはそんなことではなくて、企画のコンセプトだったり、携わっている人の意気込みだったりするのだ。
エクイタブル生命も印刷会社もそう思わせる対応をしてくれた。だから、ぼくらでさえハイレベルの仕事が出来たのだと思う。
この時の経験と自信が今のオフィスFURANOの仕事のやり方を決定している。相手がどんなに巨大でも、どんなにスティタスが高くても、こちらがちゃんと考え、ちゃんと仕事をし、ちゃんと生きていれば、結構ちゃんと受け入れてくれるものだ。と。

・写真展「彩の大地」
写真展をやりたい、それも東京のちゃんとしたギャラリーでやりたいと、那須野さんと相談してペンタックスフォーラムに写真集と手紙を送った。那須野さんが「ペンタックスの67」と呼ばれているカメラを使って、富良野の風景を撮っていることから、このギャラリーにまずアプローチすることにした。いまをときめく新宿の副都心に建つ高層の三井ビルの一階にあり、プロカメラマンなら誰でも一度は写真展を開催したいと思う人気のあるギャラリーだ。
何か月か経ったころ、一度会いたいとギャラリーから連絡がきた。那須野さんとぼくは勇んで新宿に向かった。はじめて見るペンタックスフォーラムはまばゆいばかりの「東京」だった。本当にこんなギャラリーでやってもらえるのだろうかと気後れしているぼくたちの前に、保坂さんといういかにも東京ぽいメガネの人が写真集「彩の大地」を持って現れた。審査があるのでまだはっきりは言えないが、何人かに写真集を見せたが評判が良かったので、おそらくやれるでしょう。日程のこともあるので正式には後日返事をすると言ってくれた。とにかく、保坂さんは親身にこちらの話を聞いてくれるし、新聞雑誌などへのパブリシティに関することなど、適切なアドバイスもしてくれた。東京の人に対する警戒心と偏見はいっぺんに吹き飛んだ。
保坂さんとはこの時以来現在までお付き合いをさせて頂いているし、色々なことでお世話になっている。もし、保坂さんでなかったら那須野さんに関する東京での活動はまったく違ったものになっていただろうし、こんなにもすんなり東京に馴染むことは不可能だったはずだ。ここでもまた、「人」の有難さが身に染みた。一つの物事が「うまくいく」ということは、こういう人と出会うということなんだ、とシミジミ思う。

 見出し 念願の東京デビュー 彩の大地FURANO (昭和62年6月2日)
     富良野 新進写真家・那須野さん
     31点のカラー作品とビデオ 北国PRにひと役

【富良野】ふるさとの雄大な自然を撮り続けている富良野市の新進写真家、那須野ゆたかさん(32)が、十二日から念願の東京で初の写真展を開く。デビューを飾る舞台は、権威あるギャラリーとして知られる新宿三井ビルのペンタックスフォーラム。『彩の大地FURANO(フラノ)』のタイトル通り、三十一点のカラー作品と那須野さんが監督を務めて製作した同名のビデオを披露する。富良野の知名度は東京でも高く、那須野さんは『写真による一村一品運動。北の国PRにひと役買いたい』と張り切っている。
富良野生まれの那須野さんは、東京の千代田写真専門学校を卒業。写真関係会社に勤務したあと、十年前からふるさと富良野の自然を撮り始めた。十勝岳連峰、空知川、麓郷などの丘陵地、東大演習林の大樹海…。生まれ育った大地の美しさを繊細な目で追い、四季折々の姿に感動しながらシャッターを押し続けている。
五十九年には、テレビドラマ『北の国から』の舞台になった麓郷に『森の写真館』を開設。翌六十年、初の写真集『彩の大地』と絵はがき写真集を続けて出した。昨年はオリジナルカレンダーが外国生命保険会社の目にとまり、大量注文を受けるなど、若手としての評価が高まっている。
ペンタックスフォーラムは、旭光学が五十六年に開設したギャラリー。秋山庄太郎、植田正治、林宏樹各氏ら大御所、一流カメラマンの個展がほとんどで、新人には審査が厳しく、今回の那須野さんは異例のケースという。
彩の大地展示作品は計三十一点。同ギャラリーの壁面全長四十六mをいっぱいに使い、富良野の大自然の迫力と繊細さをより訴えるため、一m以上の大作を十点もそろえた。同時上映するビデオは、一昨年夏から一年間、北海道スクールオブビジネス専門学校(札幌)の放送芸術学科生が、那須野さんの指導で撮影した。音楽は浜田均さんが担当『北国の四季の美しさを動線で表現した』(那須野さん)という。
那須野さんは最近、小樽運河の撮影にも取り組んでいるが『今回の東京展は念願だっただけにうれしい。北海道の美しさを見てもらい、観光振興などに役立てば…』と意欲いっぱい。写真専門誌にも相次いで取り上げられており、東京での初個展でさらに注目を浴びそうだ。

この写真展の写真パネルは高さ1メートル、幅3メートルを筆頭に大型パネルを10点以上作った。今でこそ大きい写真の写真展はよく見かけるけれど、あの時はまだあまりなく、写真業界でもちょっとした話題になったそうだ。もちろん話題作りのためや、脅かしに写真を大きくした訳ではなく、どうせ最初で最後のことだから、人に何と言われても、自分達の好きなようにやろうと、話してるうちに、なんとなく「富良野の風景は大きい写真がいい」という事になった。タイミングのいいことに、那須野さんの写真のイメージに合う新しいペーパー(印画紙)がちょうど出始めていた。ここでもまた、好運に恵まれた。
反響は予想をはるかに上回った。事前に出版社や新聞社とコンタクトをとり、案内状は友達、親戚はいうに及ばず、「フラニストの会」、「富良野人会」など考えつく限りのところに送付したことが功をそうしたのだ。もちろんペンタックスフォーラムの人達も最高の応援をしてくれた。
レセプションは圧巻だった。日里さんの司会で始まり、富良野市長から沢山もらった「ふらのワイン」で乾杯をし、著名な写真家の藤井秀樹先生があいさつをしてくれた。藤井先生とはたまたま先生が富良野に撮影にいらした時に、麓郷の森に宿泊されたのがキッカケで今までずっとお付き合いさせて頂いている。出席者は写真業界、出版社、新聞社、エクイタブル生命関係など数十人にのぼった。那須野さんとぼくは数々の花輪に囲まれた会場を見渡しながら、この写真展の一年前、東京にはほとんど何も足がかりはなかったのにと、感無量だった。
ペンタックスフォーラムの「報告書」から一部を引用させてもらいます。

今回の那須野ゆたか展は、電波の導入こそできませんでしたが、平面媒体の導入はるるぶ誌(カラー17P)、日本カメラ誌(カラー4P)、キャパ誌(カラー3P)、新聞各紙、他雑誌と大変なもので、富良野ファンの若い女性から年配の男女と幅広い観客の動員に結びつきました。
その数も富良野市全人口の55%にもあたる14,685名という歴代3位の記録でした。また会期中のオリジナルプリント及び写真集等の販売数にいたっては過去最高の記録を達成いたしました。
この写真展は富良野を基盤に、各方面で活躍される那須野氏をはじめとするその"仲間達"の若い力の結集とも云えるエネルギッシュなイベントでした。都心の高層ビルで旋風を巻き起こしたこの写真展は、名古屋、大阪などへと所を変えて富良野旋風を巻き起こすことでしょう。
多くの人の心に余韻を残してひとつの大きなイベントは終了しましたが、今後の活躍に、そしてまた新たな旋風を巻き起こされる日に大いに期待したい写真展でした。

・NTTテレホンカード「彩の大地」
テレホンカードの話は随分あった。自社で出す話や、企業やホテルで写真を使わせて欲しいとう話などだが、猫も杓子もテレホンカードという感じが少し嫌で、手を出していなかった。NTTの富良野営業所から声がかかった時も、断った。しかし、何回断っても、担当の課長はにこやかにやってきては、頼みますと頭を下げた。それまでの経験からして三度断ると、これ見よがしに違う人の写真を使うか、「あいつは、生意気だ!」という噂が流れるかのどっちかだった。
数度断っても、"大"電報電話局の課長の笑顔は変わらないし、噂は流れなかった。ついに、仕事を受ける方向で話を進めた。それまでの経験だと、話を進め出すと笑顔が一変して、官僚くさい「世の中はそんなに甘くない」的な表情になるのだが、「お任せします」と一言。民営化になってNTTが変わったのか、この課長が飛び抜けて異質なのか、にわかに判断は出来なかったが、「任された以上、全力でやろう!」と那須野さんと高橋と誓いあったのだった。

 見出し 美しい自然とロマン (昭和63年4月22日)
     那須野さんの写真集を使い 観光客の人気を集めそう

【富良野】『富良野発』のテレホンカード四種類が、NTT富良野報話局が製作、販売している。カードは地元の写真家、那須野ゆたかさんが富良野の美しい自然をカメラアイでとらえた『彩(いろどり)の大地』の作品を使用、ロマンをさそう。同報話局では"ふらの"のカードとしては第二弾で、観光客らに人気を呼びそうだ。
テレホンカード熱は、収集ブームもあって依然根強い人気。特に、道内では"富良野カード"が好調な売れ行きとなっている。富良野報話局の六十二年度売り上げ高は七千万円弱と、前年の二倍以上の記録となった。職員一人当たりにすると九十万円で、道内報話局では断然トップとなっている。
富良野人気は作家、倉本聰さんの『北の国から』がテレビで全国へ放映されてから。そのフィーバーは年々高まり、全国の観光地としても上位にランクされている。なかでも関西の若い人たちには爆発的な人気で、ベスト10に入っているという。こうしたことがテレカにも現れている。
富良野報話局は昨年、独自のテレカとして『ラベンダー』二万枚を発売した。ところが、富良野を訪れた観光客から『富良野の自然の風景など種類を増やしてほしい』との要望があり、今年第二弾として那須野さんの作品集『彩の大地』の中から四点を採用『FURANOカード』として発売した。
『丘としらかば』『ラベンダーとポピー』『ジャガイモの花と赤い屋根』『からまつ林と影』。いずれも百五度数一枚千円。各三万枚つくり、うち二万枚は富良野地方のホテルやペンション、キヨスクなどで売られているほか、道内でも販売されている。
那須野さんの作品テレカは初めてで、『すばらしい仕上がり』と喜んでいる。同報話局では『観光で訪れた人たちに富良野を印象づけてもらうとともに、全国にアピールしたい』と、PRしている。
四種類、各三万枚、合計十二万枚。人ごとながら、心配だった。テレカだけではなくPR用ポスターとカードケースとすべての写真は那須野さん、デザインは高橋だったけれど、うちの会社にとって、売れようが売れまいがリスクは無かった。しかし、あの課長の笑顔を曇らしたくはなかった。ぼくらの仕事がやり易かったということは、それだけ上司との間で板挟みになった課長が大変苦労したということでもある。一枚千円として一億二千万円、この巨大な額の仕事を富良野の片田舎で、しかも数名で成し遂げる。田舎もん冥利に尽きる。もちろん、売れれば。
結果は 今春に発売した四種類を加えると、なんと!十六種類になる。合計四十八万枚、発売したことになる。田舎もん冥利に尽きた。