■ 紀野一義著『「法華経」を読む』 by富良野のオダジー 2010年12月30日(木)

  35,889 byte日蓮宗のお寺に関わる仕事をしているので、私なりに日蓮宗について、色々調べていた。
そうだ、日蓮宗と言えば、法華経だ、法華経の入門書みたいな本を読もうと、アマゾンへ行った。
そこで出てきたのが、紀野一義著『「法華経」を読む』だった。早速、買ってしまった。
実は、私が最初に法華経に触れたのも紀野一義が書いた入門書だった。その印象が強く、もう一度読もうと思って、探してみたが、見つからなかった。
読んだのは、大学4年生の時だったと思うから、昭和50年(1975年)頃だ。タイトルは「法華経入門」だったと思うが、ネットで調べ切れなかった。(勘違いかもしれない)
紀野一義の本は、他にも何冊か読んでいる。随分前に、ワイワイ日記でも、紹介したことがあるが、住職にお願いして、「法華経の風光」をテキストに、勉強会をしていたこともある。これも30年前の話だ。
私にとって、法華経と日蓮宗の“ご縁”は、かなり深いと思う。その最初のご縁をいただいたのが、紀野一義なのだ。
『「法華経」を読む』のことである。
まだ、途中までしか読んでないが、「自未得度、先度侘」が出てきた。「じみとくど、せんどた」と読む。
道元禅師の言葉である。
「自分を救えなくても、他人を救うことはできる」という意味だ。(解説はもっと深く説いているが・・・)
この言葉を憶えていて、自分でびっくりした。不思議な気がした。
私に、何かを知らせている感じがした。今は、それがなんなのかは分からない。
ついでに、妙に憶えている、「只管打坐(しかんたざ)」を調べてみた。なんと、これも偶然だが、道元禅師の言葉だった。
「ただひたすらに坐る」という意味だが、最初に聞いたときから、カッコイイ言葉だと思っていた。
30年以上経って、また、日蓮宗や法華経とグッと近づけたことは、ありがたい縁だと思っている。
 


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