■ 「こころ KOKORO」とコルトレーン byオダジー 2007年03月09日(金)

  20,624 byte今や富良野の夏の風物詩になった「北海へそ祭り」は今年も7月28日、29日に開催されるが、毎年、その宣伝媒体に使用するポスターのデザインコンペが実施される。
私の会社、オフィスフラノも1997年から、コンペに参加している。今まで四度オフィスフラノが採用されている。2004年度のポスターは、絵本作家の「かさい まり」さんに描き下ろしてもらった絵を使って採用された。
そして、今年は村田鳴雪の書「絆 KIZUNA」をメインに、へそ踊りをする人がお腹に描く顔を歌舞伎の隈取(くまどり)風に描いた絵をデザインした。結果はうれしいことに、採用になった。
すぐに、鳴雪に電話で報告した。ついでに、フォーラムフラノに展示する新しい作品も作ってと、ちゃっかりお願した。来てくれたお客さんから、他の作品も、もっと見たいと言われたこともあるが、フォーラムフラノを鳴雪の作品で埋め尽したいという思いがある。
「書」と「ジャズ」と「珈琲」と「ワイン」と「ランチ」と「ディナー」と・・・、そして「オダジー」。オダジーは余計か!
今日紹介する書は「こころ KOKORO」だが、漢字で「心」とは書けない。写真を見てもらえれば分かるが、こんな漢字はない。調べたところによると、この字は『散氏盤』にある字で、『散氏盤』は西周(せいしゅう)後期(脂、期・紀元前9〜紀元前8世紀)の鋳造と考えられている青銅器だそうだ。
見ようによっては、心臓の形に見えるので、象形文字に近いのかもしれない。私はこの書を見たときから、惹かれるものがあった。他の書は風、月、山、花など自然をイメージするものばかりなのに、この作品だけは異質だったこともある。
でも、「心」は自然界のあらゆるものの、根本的なものだから、真ん中にど〜んと、展示されている意味は大きい。風の心、月の心、山の心、花の心・・・。すべてのものに心はあるのだ。
「読めない字や分からない字の方が、長い時間見ていても飽きないものだ」と、鳴雪は電話の向こうで言った。鳴雪の師匠である塩田慥洲先生も「読める字は作品にならない」というようなことを言っていたそうだ。
この書に組み合わすジャズは、初めから決めていた。もちろん、ジョン・コルトレーン以外にない。数あるコルトレーンの中から、私の一番好きなレコード「コルトレーン」
コルトレーンは、精神的な、スピリチュアルな、世界にどんどん入っていった。哲学とか宗教とか瞑想とかがコルトレーンのイメージだ。以前にも書いたが、コルトレーンを聞くときは、正座して聞かなければならないという感じになる。
コルトレーンは、人間の奥の奥に持っている「何か」に、もの凄いエネルギーで訴えかけるのだ。何かとは、おそらく人間として持ってしまった「苦しみ」とか「悲しみ」、「寂しさ」、「惨めさ」、「諦め」・・・。コルトレーンは、それらを乗り越えることは出来ないし、乗り越えたって何も生まれない。それらを抱えて「そのまま」生きなさい、と教えてくれたような気がする。
コルトレーンを聞いて、悩みが吹き飛び、ウキウキした気分になり、「よ〜し、頑張るぞッ」ということはない。聞けば聞くほど、むしろ悩みは深まる。でも、「大きなもの」に包まれた気持ちになる。苦しいけれど、苦しいまま、やすらぎを得られるのだ。自分の存在が小さく思え、不思議な力が湧いてくるのだ。
なんか、くどくど、訳の分からないことを書いてしまったが、鳴雪の書「こころ KOKORO」にも、コルトレーンの音楽に感じることと、似たようなものを感じる。
 


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