■ 父の道具 by富良野のオダジー 2011年12月26日(月)

  51,449 byte今朝も「雪かき」をした。
今は、大粒の雪が降っているけれど、積もるほどではないようだ。
気温はそんなに寒くなく、落ち着いた感じの日だ。
フォーラムフラノが始まる前に、ちょっとした修繕をした。
「営業中」と書いた看板を駐車場の横に立ててあるのだが、だいぶガタがきていた。それを補強したのだ。
ノコやノミなど、ひと通りの道具は身の回りにある(昨年亡くなった父が使っていたもの)。だから、修繕などやろうと思えば、いつでもやれる体制にある。でも、「やる気」がなかなか起きない。
今日はさすがにこのままだと看板がバラバラに壊れてしまいそうだったので、「やる気」を出した。
やり始めれば、30分もかからない。
やりながら、「本当は人生の中に、こういう時間はちゃんと組み入れなければならないのだろうな」が、フッと浮かんだ。
つまり、プロに頼まなければならないこと以外は、なるべく自分でやる、ということ。
昔の農家さん、私の親戚の叔父さんなんかは、米や野菜を作り、馬やニワトリを飼い、そして納屋を自分で建てたりしていた。生活の中に、生きていく術(すべ)がすべて詰まっていた。
私たちの時代は、自分の仕事で収入を得て、その収入から、仕事以外の諸々のことをプロの人にやってもらう。
効率を考える。
不得意な分野で時間を費やすのなら、得意な分野の仕事をもっと頑張って収入を上げ、その収入で支払う方が効率的だ、と。
「比較優位」という言葉も浮かんだ。
『比較優位にある財に特化し、他の財は貿易を通じて相手国から輸入すれば、両国とも貿易を行わなかったときよりも利益を得ること。』
日本はこの考えで、比較優位にある自動車、家電に特化している。農業は比較優位じゃないから、輸入する方向になっている。
何をいいたいかというと、正論に聞こえる「効率」とか「比較優位」の考え方に、「そうなのかなぁ・・・」と。
色々なことがからみあって、世の中は出来ていると思う。生きていく上で必要なのは、バランスだ。仕事だけではなく、日常的な作業の中に、大切なことがあるような気がする。
最近、以前読んだ「ペンシルバニア・ダッチ・カントリー―アーミッシュの贈り物」を読み返し、「ブータン 国民の97%が“ハッピー”な国「他人はきょうだいの始まり」」を読んだことが影響しているかもしれない。

父の道具を“おまじない”のように、身近に置いている。使うときもあるが、見ているだけで、伝わってくるものがある。
私が残すものって、何かあるのだろうか?
 


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