(FNWL誌)
このミニコミ誌こそぼくらの原点なのだ。昭和57年当時、つまり「北の国から」放映後、富良野は動き出すなぁという感じがヒシヒシとした。そのことは、善し悪しは別にして富良野の街や人が変わっていくことを意味していた。じゃ、そんな中で自分たちは何が出来るのだろう、何かやらなくては、と始めたのがこれだった。まわりの先輩たちも丸太小屋を守る会をはじめ色々動きだしていた。日里さんもぼくもミニコミ誌に対しては、まったくのシロウトだった。ミニコミ誌はおろか作文だって子供の時書いたきりだった。もっと悪いことに、その作文すら誉められたことが一度だってなかったのだ。とにかく印刷屋さんに行った。どのくらいお金がかかるか見当もつかなかったからだ。だいたい十万円くらいの見積だったと思う。もちろんその頃のぼくらにとって小さい金額ではなかったが、売れなかったら二人で5万円ずつかぶることにし、意を決してゴーサインを出した。発行人は日里さん、編集長はぼく。ここまではすぐ決まった。とはいうものの何をどうしたら良いか何も分からない。
例によって、茶畑さんのところに相談に行ったら、ちょうど吉本さんもいた。二人は、発行することはとても良いことだからどんどんやった方がいいし、どうせやるのだったら発想を変えて、何処にもないものにと激励してくれた。応援もしてくれるという。でもこの時は茶畑さん、吉本さん、二人が自ら文章を書くなどとは思ってもみなかっただろうし、ぼくらもまったく期待はしていなかった。それはまわりの先輩に対しても同じだった。ところが、まずジュンさんがジのペンネームで、続いて仲世古さんが友楽鷽(ともらく・うそ)で、吉本さんが吉本大人(よしもとたいじん)で、茶畑さんがチャバで、始めてみれば、みんなが書いていたのだ。実はみんな書きたかったのだ。ぼくらも書いていただいてとても助かったけれど、一つだけ条件を付けさせてもらった。書きたい人は一人50冊買い上げること。これでどうしてこのミニコミ誌が八号まで続けられたかお分かりでしょう。それは冗談で、助かったのは事実だけれど、本当にちゃんと売れたのです。各号200円で、2000部。これは富良野の奇跡だと叫んだ人がいたが、正に、奇跡だった。基本的には、富良野の人物(フラニスト)にスポットを当て、フラニストの発想でのイベントも開催しながら、観光客にとっても富良野の人達にとっても、おもしろいものにしたいと考えた。このフラニストという造語もミニコミの企画として作ったもので、いまや色々なところで使われ、すっかり市民権を得てしまった。
このミニコミ誌は正式にはビニコミ誌と呼ばれている。それはページも薄く、中身もアレだから、立ち読みされたら絶対売れないと思い、苦肉の策で、友達の豆腐屋さんで使っているビニールパック機を借りてビニールパックにしたからだ。だから少し匂う。しかし、内容に渋い顔をしていた倉本先生もこの発想は誉めてくれた。このくだりは「北の人名録」に出ているのでご覧ください。ともあれ、このビニコミ誌は色々なタイプの作家?を輩出し、色々な会を作って盛り上がり、おもしろいイベントで沢山の人を集めたのは事実なのだ。ここ4年新しい号を発行してない。一つの理由として、みんな年を取ってしまったことが上げられる。若い人にうまくバトンタッチ出来なかったのだ。それはぼくと日里さんの責任だけれど、若い人もパワーをあまり感じさせてくれなかったことも大きな原因だと思う。これからのぼくらの仕事に、若い人にどうつなげていくのか、どうパワーを引き出すのか、があるような気がする。
具体的な内容を少し説明したいと思うが、その前にぼくが書いた創刊号冒頭の「ごあいさつ」を読んでもらいます。おそらくこの文は、ぼくの文が“世間様”の目に触れた初めての文だと思う。

おまたせいたしましたァー!と、!マークで叫んでも、一体、何がおまたせなの?と、?マークで訝る人がほとんどでしょう。まあ、いい。まあ、いい。 とにかく、おまたせなのだ。
「FROM・NORTHLAND・WITH・LOVE」 ─北の国から愛をこめて─どう、この垢抜けた感覚、すばらしいものに違いないという予感が、ヒシヒシと伝わるようなネーミングでしょう。しかし、残念ながら、私が考えたのではありません。これは「"丸太小屋"を守る会」の正式名称なのであります。
丸太小屋をご存知でしょうか、当然、知っていると思います。
そう。倉本聰氏がシナリオを書いて、大好評を博したテレビドラマ「北の国から」に使われたものです。土、日はもとより、平日でも沢山の人が色んな所から来ています。富良野近郊は勿論ですが、旭川・札幌・帯広などの道内、東京・京都・沖縄などまで、正に、全国津々浦々からはるばる来ているという感じです。
そこで、丸太小屋周辺の環境を守るとか、訪れてくる人々に少しでもいいからサービスするとかの為に出来たのが、吉本昭雄氏を会長とする丸太小屋を守る会なのです。では、何故その名称を使うのか?
丸太小屋を守る会の目的は、前述したことだけにとどまらず、ドラマ「北の国から」で描かれている"精神"を受け継いで、色々なことをやっていくというものなのです。そして、私達のこのFROM─誌もその"精神"にのっとってやっていくことの一つだと考えているからです。
具体的には読んで下さればわかると思います。(わからなくなるかもしれませんが……)つまり、そのようなことを踏まえながら、丸太小屋を守る会と、FROM─誌が核となって、小さくは一人でも多くの人とコミュニケイトしたい。大きくは、新しい富良野の「ブンカ」を築いていきたい。と、まあ、こういうことなのです。
沢山の人達が参加してくれなくては、なんの意味もないものになってしまうので、「そこのところ、よろしく。」

何回も何回も書き直して、やっと書き上げた記憶が蘇る。今考えると、ぼくの人生はこの文から始まったと言えるかもしれない。自分自らが何かをやって、一つの形にした最初のことが、このミニコミ誌だったような気がする。ミニコミを完成させた喜びと自信がその後の生き方を変えたのは間違いない。
今改めて1号から8号のすべてを読んでみて感じることは、今ぼくがやっていることや、やろうとしていることの根本的な思考や発想は、そのほとんどがミニコミによって培われたということだ。
内容を少し説明すると、先にも書いた通り、茶畑さん、仲世古さん、吉本さん、佐々木さんたちが、ほとんど毎号書いてくれた。他に、「FURANIST」「忘れかけた方言辞典」が創刊号から、「ざ・ぺあ・おぶFURANIST」が5号から連載された。FURANISTのコーナーは、ぼくらが選んだ、あまり派手ではないけれど、いかにも富良野を支えてきたと思える"ジブイ"方にぼくがインタビューした。
もともと、フラニストの言葉はこのコーナーのために考えたものなのだ 初回の井上碧翁と2号目の斉藤文承住職の原稿を後で転載する。忘れかけた〜は、前述通りすべてを転載したし、日里さんが担当した、ざ・ぺあ・おぶ〜は一部を後の項に載せたので読んで下さい。
企画ものとしては、かかし大賞や1本の木大賞を勝手に決めた、「かってになんでもコンテスト」「富良野いつもシャッターチャンス」と銘打った写真展、可愛い女の子に近づくために考えた「私のたからもの」、「私のお気に入りの絵」、ぼくの趣味を押し付けた「こんな時こんなレコードが似合う」など。そして、一番大きな企画は後で詳しく書くが、記事にもなり、出演者の方にエッセイも頂き、実際にコンサートも開催した「ふらのフラフラコンサート」。このコンサートが、FNWL誌の最大の収穫と言ってもいいかもしれない。
そして、「このゆびとまれ」。このコーナーには実際に頑張っているサークルやこっちでデッチ上げた会やらが入り乱れて紹介された。その中でバカバカしいけれど、ちょっと面白いものをタイトル、内容、会の名前の順序で少し紹介する。

●永井荷風の「へその緒」貰い受けたく候
雑誌に永井荷風のへその緒が見つかったという記事が載っていた。富良野は北海道の中 央に位置していることから、へその街と言われ、へその緒を祀る北真神社、通称「へそ神社」がある。毎年、7月28日、29日の二日間には、北海ヘソ祭りも盛大に行われている。そのへそ神社にある「へその緒を守る母子堂」に荷風のへその緒を貰うことへの協力要請(永井荷風のへその緒を北真神社のへその緒を守る母子堂に貰い受ける会)

●過疎ばんざい!過疎ばんざい!過疎ばんざい!
富良野駅に特急が止まらなくなり、不便になったが、この方が北の国にはるばる来た感じがして富良野にとっては良いことだ。つきましては、過疎ばんざい祝賀会を開くので是非出席してほしい。
という趣旨の手紙を当時の高木国鉄総裁に出したのでよろしく。(過疎を真剣に考える会)

●富良野の市歌にヨーデルを!
富良野で一番流行っていると言われている食べ物のお店「くまげら」の森本さんは何かと言えばヨーデルを歌う。 倉本先生の本にもヨーデル森本の名で出て来るのだが、その森本さんがヨーデルを教える会員を募集し、ゆくゆくはヨーデルを市歌にしたいという。(まだ会員一人のヨーデル愛好会会長 森本毅)

後はタイトルと会名だけを載せるが、内容は想像におまかせします。
「秘境たずねれば」新日本奇行倶楽部、「美しい人々うたを詠む」若いじっこの会、「もうひとつのノーキョー」濃狂組合、「ユーモアクラブ女性会員大募集!」You(ゆー)More(もあ)苦(く)Love(らぶ)など。

最後にこの記事を紹介します。

タイトルは「本の雑誌の編集長・椎名誠氏、FNWL誌の編集長・小田島忠弘氏の誕生日を祝う!」で なんと椎名さんから花束を手渡されている写真まで載っている。実は、これにも裏がある。全くの偶然だったが、ぼくの誕生日と同じ日に旭川で、椎名さんの講演、サイン会があった。そこに自分で花束を持って駆けつけ、事情を説明したら快く引き受けて下さったのだ。勿論、記事には種明しをしているのだが、何人かの人に「椎名さんとお友達なんですねぇ」なんて言われた。こう書き進んでいくと、よくもまぁ、いいかげんなことばっかりやっていたなぁ、と、やっぱり思うよ。ほんと。

この本を書き始めてから、イラストを担当してくれていた佐藤ゆきこさんのことをずっと思い出していた。 結婚して東京に行ってからもう数年経っているが、一度も会っていない。ところが、ぼくの東京の友人に誘われて、先日行ってきた「地平線会議」という集まりになんと!佐藤さん改め宮寺さんが旦那さんと一緒にいるではないか。偶然とは言え不思議な縁を感じた。たまたまワープロを叩いているその最中に、それもFNWL誌のことをまとめている時に、会うなんて!
ぼくは割と霊感というか、そういうものが強いが、この時にいま書いている本は形になると確信した。こういうことに巡り会うと、こういう結論を出す性向がぼくにはある。もちろん佐藤さんは出版されたら、真っ先に買ってくれると約束してくれた。