いいふりこきのがんべたかり
いいふりこきのがんべたかりとは、これぞ北海道方言の王様と呼ぶにふさわしい風格とセンスを持った言葉だ。日本語に訳するのはほとんど不可能に近いが、とりあえずやってみる。
この言葉はいいふりこきと、がんべたかりにまず分かれる。そしてまた いいふりこきは 、いい、ふり、こきに、がんべたかりは、がんべ、たかりに分かれる。いいは良い、ふりは格好や振舞い、こきはする。良いカッコーをするの蔑視した感じで、関西弁のエーカッコーシィーに近いと思う。がんべたかりは諸説があるが、ぼくが聞いた範囲で考える。昔の子供は坊主頭によく瘡蓋を作った。
栄養が不足している時代の皮膚病の一種だと思うけれど、その瘡蓋が白樺の樹皮に似ていた。昔、白樺の樹皮は、薪などの着火時に使われている焚き付けの役目をしていて、ガンビと呼ばれていた。たかりはハエがたかる、ゴミがたかるのたかると同じ意味。
つまり、白樺の樹皮に似た瘡蓋がガンビの連想からガンベになり、瘡蓋が出来ることを、がんべたかりと言った。昔の子供はよくガンベが出来たと言っても、出来たらやっぱりみんなに馬鹿にされた。「がんべたかり、かんべたかり」と言われることは、馬鹿、アホとからかわれていることなのだ。それが子供ではなく大人に向かって発せられた時は、事態はもっと悲劇的になるのはご理解いただけると思う。
いいふりこきのがんべたかりとは、イイカッコーシィーの間抜け野郎と言うことになる。もちろんニュアンスはちょっと違うけれど、しょうがない。

では、「いいふりこきのがんべたかりの会」についてお話します。この会は自分の興味のある得意なジャンルを恥ずかし気もなく、人に何を言われようが、自分の独断と偏見で開く。企画、構成、進行、集客など、すべてやりたいと思った人が行う。
FNWL誌の中から生まれた日里さんとぼくの会だ。一回目はぼくがやった「素敵なあなたに贈ります…、JAZZ!」。ジョージルイスのニューオリンズジャズ「世界は日の出を待っている」からはじめ、マイルス、ローリンズ、コルトレーンと続け、アルバートアイラーの「サマータイム」で盛り上げ、山下洋輔トリオで締めくくった。もちろん得意の講釈付きで。ほとんどの参加者は聞いてはいなかった。それでもいいのだ、いやそれだからこそいいのだ。この会は自分が自分にうっとりすればそれでいい。いいふりこいて、がんべたかればいいのだ。
続いては「みんなフランス」だった。歯科医の田中一行氏の主催で、壁にはエコール・ド・パリの人達の絵画を掛け、フランスワインに、エスカルゴ料理。エスカルゴなんて初めて食べる人がほとんどで、みんなむやみに感激。音楽はエデットピアフのシャンソン。服装までフランスチックでバッチリ決めている。
「このがんべたかりめが!」お話はフランス映画についてだったと思う あと、吉本さんが開いた講演会もおもしろかった。
自分で演台を運び込み、花を活け、水差しを置き、壁には演題を書いた紙を貼り、それは大変だったと思う。幕末のマイナーな人物「清河八郎」にまつわる話で、博学ぶりを発揮していた。
このようなことをやっている時に、ガンベルックなるものを日里さんとぼくは考案し、全国にむけて販売しようと意気込んでいた。どんなものかというと、上着の袖は筒袖で着物風、下はモンぺスタイル。日里きもの店で試行錯誤の末、出来上がったもので 30着近くは売れたと思う。こんなものを着るのは、いいふりこきのがんべたかりしかいないよと、「ガンベルック」と名付けた。
しかし、着るとこれがなかなかよくて、ぼくはとっておきの正絹を含めて、3着持っている。ガンベルックで日里さんと二人で、弘前の街を歩いたこともあるし、ぼくはなんと、池袋のゲイバーに着て行って、最近はシロウトさんがクロウトよりおかしい格好をすると言って怒られたこともあった。
ガンベルックの圧巻は、あのジョン・バエズが2着買っていったことだ 札幌でのコンサートが終わり、富良野プリンスホテルで休養していたそうだが、突然日里きもの店に入って来たらしい。それに関してぼくがFNWL誌に書いた「突然のお客さま」があるので、ここに転載します。

まず、ことの起こりを説明しよう。
「エクス・キューズ・ミー」と言ったかどうかは解らないが、とにかく外国の美女二人と、若い日本の男性一人が日里きもの店に入って来た。聞けば、浴衣が欲しいという。浴衣はもう時期遅れ、あまり良いのがない。こまった、まいった、どうしようと、考えた瞬間、パッとひらめいた「あッ、そうだ!あれをすすめよう」。
"あれ"とは何んであるか。
ご存じの方もいると思う 我がFNWL誌二号"とても気に入っているんですョ"で紹介した、きものプラスもんぺの新ファッションである。
「ベリー・グット」と、言ったかどうかは解らないが とても気に入ってくれた。「ハウ・マッチ」と、言ったかどうかも解らないが、日里さんは「はい。いちまん、きゅうせん、はっぴゃく、えんです」と、明るく 元気に、日本の正しいあきんどの声で、きっぱりと日本語で答えた 若い日本人は、すかさず「ナインティーン・サウザンド・エイト・ハンドレット・エン」と直訳し、美女に告げた。
美女は納得し、クレジットカードを出した。あまり見たことのないカードであるが、確かめると、使えるとのこと。金額を書いていつものように、サインを求めた。スラスラと書き入れたサインを見て、日里さんは 跳び上がった。それには「JOAN・C・BAEZ」と、書いてあった。つまり、ジョン・バエズと。
「ジョン・バエズ、ジョン・バエズ。お前ジョン・バエズ知ってるか。ジョン・バエズ」興奮した声で日里さんから電話がきた。
「知ってるよ。反戦歌手のジョン・バエズでしょう。
ドナ・ドナ・ドーナ・ドーナでしょう。それがどうしたの」と、ぼくは答えた。「来たんだよ、来たの。うちの店に。あれ、あれ、買ってった ガンベルック」。にわかに、ぼくも興奮してきた。「えッ、ジョン・バエズがガンベルック買ったの。ほんと、ねェ、ほんと。ウソはドロボーの始まりヨ。スゴイ、スゴイ、ゴイス、ゴイス」。
ぼく達の間では、あんなものは、いいふりこきのがんべたかりしか着ないからと、あれを、ガンベルックと呼んでいた。
それから、興奮さめやらぬ二日後、なんとジョン・バエズから電話がかかって来た。もう一着欲しいというのである。日里さんは、またも跳び上がった。もう一度跳び上がると三段跳びである。この時とばかり、小商人的図々しさで、写真を撮らせてちょうだいと、頼んだ。答えは、OKであった。
日里さんと塩尻カメラマンとぼくとで、プリンスホテルのティールームへ勇んで向かった。ティールームには、すでに三人は来ていて、なにやら飲んでいる。そして、驚いたことに、ジョン・バエズはあの"ガンベ"を着ていた。とても似合っている。思わず、ワンダフル、ビューティフルと言わないで、あらかじめ練習していった「アイム・グラッド・トゥ・ミート・ユー」(あなたに逢えて、うれしいわ)を、順々に三人で別々に言った。ジョン・バエズは笑顔で応えて、やさしく、品の良い手を差しのべた。
三十分くらい談笑?しただろうか、なかなかいい感じだった。正に、日米親善、戦争反対、人類みな兄弟だった。日米ごちゃまで語、身振り、手振り、足振り、なんでも有りで色々聞いてみた。
ジョン・バエズは都会が嫌いで、休息するなら田舎がいいと、富良野に来た(札幌公演がコンサートツアーの最後だった)。富良野は紅葉がきれいで、すばらしい街だと言い、食べ物はどうかと聞くと"キンキ"の目玉を食べたと、ジェスチャーまじりで話してくれた。その他、いま住んでいるカルフォルニヤの小さな村のこととか、干支の話などが出た
「写真を撮らせていただけますか?」と、いつになく、慎重、丁寧、控え目の塩尻ひょうきんカメラマン。「どうぞ」と、笑顔でジョン・バエズ。バシャッ、バシャッ、バシャッ、歴史的な写真が何枚も撮られた。ジョン・バエズは、こちらの注文に気持ち良く応じてくれた。ほんとうに、やさしく、あったかい人だった。
ジョン・バエズが今、どんな歌を歌っているのか知らないが、昔と変わらないすばらしいものに違いないと思った。そして、こんど来日したら 必ず行こうと決心した。
別れ際、通訳の人が教えてくれた。以前、広島に行った時、無理矢理に牡蛎を食べさせられ。そして、写真をバチバチ撮られ、揚げ句の果てに全く無断でポスターにされたことがあった。それ以来、滅多に写真を撮らせないんだよと。
ぼく達三人は、しみじみと幸せを感じながら、プリンスホテルをあとにしたのだった。