日里雅至編
〈ざ・ぺあ・おぶ・FURANIST「炉ばた」〉

暗い酒場の片すみ─で (ニックのニーサン)女が一人酒を飲む、毎晩毎晩酒を飲む、熱いまなざし、給料の半分までここ"炉ばた"につぎ込み通いつめること二年余り。マスターが目当て。「初めて会った時、何かを感じた」と言う。パー、ピカッとヒラメキ、ヨロメキ、ワメキだし、突如!何が何でもお嫁さんにしてもらおうと固い鉄の決心。
幸子─三十六歳 女ざかり。
昭和五十年"炉ばた"二代目襲名、跡を継ぐ。創業して二十四年、伝統の"炉ばた"である。若い娘の噂が噂を呼び、連日連日満員御礼ありがとう。感謝感謝、感激感激。順調マスター三十歳を迎え"青年の主張三十歳編"で、「とにかく三十歳になったので、結婚しなければならない」ひそかに思ってた人はいたけど、商売第一、ぜいたくは敵、欲しがりません勝つまでは。
そうだ!"炉ばた"に一番かよった女。"炉ばた"で一番お金を使ってくれた女を嫁さんにもらおうと固い鉄の決心。栄治─三十歳 男ざかり。
これも愛、あれも愛、たぶん愛、きっと愛 目でたく、昭和五十二年十月大安吉日、田村栄治・幸子結婚、合体、子宝ぞくぞく。
時流れ六年。評判評判大評判の"炉ばた"の二人を訪ねた。せまいカウンターを走り回る二人、ひたいに汗、汗と油にまみれて働く二人。なんと美しい。二人は若い。店は暗い。酒はうまい。かなり遅い結婚ですよネ。「そんなこと関係ない」とキッパリ。三万市民のひとりとして力強いお言葉。でも失敗したなあと、フト思うことあるでしょう。ネ、ネ、マスター。「うーん、そうだなもっと早く若いうちに会っていたらよかったな」と。でも、目は笑っている。酒も笑っている。店も笑っている。カッキ、カッキ、いらっしゃい。元気元気とにかく忙しい。ママがやってくる。ビールが進む「私酔ってしまうと、何が何だかよく分からなくなるんだヨネ。おあいそも、そしておつりも」
マスターにママのことを聞いてみた。本当か嘘か分からないが、その1「結婚して早々、お客さんにおしぼり出したら、それがなんとママのパンティ。それをもらった酔っぱらったお客さんが、手を拭き、顔を拭きそして頭にかぶった」。その2「ニンシン検査をするというんで夜中から、オシッコを我慢し、いざカップに取ろうとしたら、余りの勢いでカップを落としてしまった」
とにかく噂以上。ママはこれだけは書いといてヨと色っぽく半強迫的に「マジだよ、この商売は好きでないとやれないヨ。マスターも好きだけど、この商売私にあっているみたい……」と。
最近"炉ばた"のメニューが一品(ひとしな)増えたという。マスター絶賛スペシャルおすすめ品。その名も"さちこのささ焼(や)き"……


〈ざ・ぺあ・おぶ・FURANIST「やまどり」〉

僕の可愛い美代ちゃんは…… 滝川「兼田丸(かねたまる)」の三人兄妹の末っ子、蝶よ花よとお嬢様。さわやか、しとやか、箱入り娘。なのにあなたは京都に行くの。菊にスイセン、ボタンにユリ、女の花道、華道を学ぶ、池坊専永である。三年間一般教養は勿論、女性として身につけるものすべて、品行方正。突如、姉さんが嫁に行く。看板娘の補充のために呼び戻される。割烹&スナック「兼田丸」を手伝う。酒に強く、男に強く、自衛隊に強い。自衛隊員の花、高嶺の花、マドンナ。
ドンナモンダの……美代子二十六歳。
頭(かしら)。右、番号、日の丸、君が代、ガンバレ日本。国防に燃える、滝川自衛隊普通科連隊第二中隊所属。鉄砲を持って、突撃突撃の毎日。夜の鉄砲は空砲バカリ、夜は、たまり場「兼田丸(かねたまる)」へ。「兼田丸」はおかげで、カネたまる。上官の伝令を受け走る。厳しい訓練、そして演習。模範隊員、日本の戦士、そして何故か除隊。上京。 さらば地球よ…… の、あの虫プロへ、漫画家目指す。好きな道へ、しかし芽が出ず、出たのは足だけ。ヤマト沈没、「帰ろう!」両親の元へ。焼肉屋「やまどり」へ飛んで帰る。親に優るものはないと。
悟りの……優(まさる)二十六歳
俺はズボラだから、しっかりした女房と心に決める。上を見ればキリがない。下を見ればアトがない。回りを見ればコレしかない。手紙に電話ブッシュプッシュのストロングブッシュ。マスターことのほか力(りき)を入れる。でも、一方通行「忙しい」と美代ちゃん取り合わず。美代ちゃんめんこい、星のフラメンコ。冬のある日富良野に誘う。スキー場で喫茶店で言い出せず、富良野の灯を見る星を見る。場面最高!それでも言えない。送っていく汽車の中、乗客が座っているそのボックスで、その人前で「結婚してください」。花嫁は夜汽車にのって、お〜ロマンチック、丹頂チック、愛のチックタック。いいじゃなーい。
昭和五十一年九月結婚。
焼肉屋「やまどり」若夫婦。両親を側面から応援しようと二人で頑張るチームワーク抜群。伝統の味を守る。マスターは頼まれると、いやと言えない。「お父さんはお人好し」やたら役職が多い。
精力的に動き回る。その代わり、店をあける。「本当、うちは母子家庭なの」と美代ちゃん。門限十二時、二人目の子作りを約束するが、結果ともなわず。下の子ほしい、マスターに居てほしい、の、してほしい。
店を切り回し、タレをかき回し、家庭を守る、店を守る日本の母。浪花節だよ人生は。明るい、とにかく明るい。「体重と共に図々しくなる。結婚して太るなんて、本当に幸せでないかい」こいつ!話し上手、買物上手、洋裁上手、きき酒上手の美代ちゃん。
「やまどり」は焼鳥屋ではない。ホルモン、サガリ、シンタン、レバーにジンギスカン、みんなうまくてついつい食べ過ぎる。そして、バァちゃんの漬けたおしんこ、どれも天下一品。秘伝のタレは絶品、バャちゃんは上品、美代ちゃんは別品。どれもこれも「ホルモンのおかげ」。
マスターは「市民の皆様に可愛がってもらう店、家族が一緒に来てくれる店になるよう努力する。新しいことはしないヨ」と。何気ない言葉が実に味わい深い。ホルモンといっしょで、後でじっくりきいてくる。そして、やまどりは羽ばたく。


〈小田島忠弘を語る〉

この原稿はFNWL誌とは直接関係ない。日里さんがこの本のために"特に"書き下ろしたものである。ぼくが依頼した訳では勿論ないが、「発行人としてオレにも、何か書かせろ!」と言われ、仕方なくこういう次第になった。
ある有名人が自分で撮った作品の写真展を見たことがあったが、なんと、本人が写っているものが何枚かあった。どう見ても、自動シャッターで撮ったものではなかったのに。この原稿を渡された時に、そのことを思い出した。
ま、とにかく、読んで下さい。

小田島と決定的な出会いをして10年。
二人を引き合わせたのは、言うまでもなく青年会議所であった。ある会議で、「ソ連の情勢は…、北の防衛は…、北方領土は…」と得々と話し、果てはソ連の脅威論まで語り始めた。関係書を2、3冊読んだのか、流れるように力説していた。
マジか?真面目だ。内心笑ってしまった。「あの建具屋の小田島が!」。でっかくなったな、体が、態度が。しかし、確かに少し垢抜けてはいた。
友達にはなれないなと思いつつ、東京帰りのUターン組、零細企業の後継者、ちょっとおしゃれ、何もないが何かがある。違う、どこかが違う。匂いが、育ちが、品が。目の離せない奴、気になる奴、と興味は持った。
子供の頃から顔と名前は知っていたけれど、「背が小さく、妙に愛想が良く、少し頭のイイ子」ぐらいで、印象は薄かった。ぼくは、俗にいう士農工商の商で、小商人としてのセンスは自信があるが、残念ながら文化水準は低かった。
大人になった小田島は、ぼくとは少し違った。趣味が広いのだ。ジャズに読書、絵画に山頭火、写真に映画、運動部で育った小商人にないものが、いっぱいあった。
文化というか、教養というか、物を見る視点、話のセンス、話題のすべてが新鮮だった。とにかく、いつの間にか、訳の分からないまま意気投合の、グレートトウゴウになってしまった。
歴史的な小田島・日里コンビの誕生である。それからは、毎日、朝昼晩と顔を合わせ、「小田島、何してるベー」と思っていると、電話が鳴るか、玄関の前に立っていた。何をするのも一緒。先輩方には、二人で一人前、一人じゃ中途半端、帯に短し襷に長し、双子のリリーズ、と、なんだかんだ言われながらも楽しく、明るく、元気よく、下積みの時期を過ごした。

小田島は思い込みが激しく、憧れが強く、先読み、ヘタ読み、斜め読みをするのが得意なので、理解する人は少ない。生意気、あの野郎、お調子者。これが、小田島の形容詞である。しかし、センスの問題なのである。小田島のセンスは違うのである。周りを見る目、自分を見る目、富良野を見る目、日本を見る目、世界を見る目、が違うのである。
出会った当時は、自分の街を真剣に語る人は少なかった。刺激も少なかった。ぼくらも幼かった。しかし、ぼくらは日常会話で世界情勢を、日本を、そして富良野を、真剣に、真面目に話してきた。生意気な言い方をすれば、その時代時代のコンセプトを確認していたのだ。
そんな中で小田島は、富良野のために何が出来るのか、何をすべきか、何故しなければならないのか、自分の生き方は、立場は、役割は、などを考え合わせて判断するトレーニングを知らず知らずのうちに、ずっとやっていたのである。
だから凄いとかの、話ではなく、少なくても小田島のアイデンティティを理解出来ない人は、21世紀を生き抜けることは出来ないし、取り残される。ぼくは小田島に人生を賭けるつもりは勿論ないが、理解者の一人として応援できればと思う。
ミニコミに始まり今この本を出そうとしている自分たちに感動感激勘違い、久しぶりの快感です。語り尽くせないほど、言葉にできないくらい面白い出来事が沢山ありました。つねに認め合い、影響しあい、刺激しあった結果かなと、ふっと思う。自慢じゃないけど、この10年の小田島の"青春"は、すべて知っています。

毎晩、毎晩「炉ばた」に通った。すべてのことが、炉ばたから始まっているし、マスターもママも本当に応援してくれた。お金に変えられない財産である。ママはいつも、「これからの富良野は、あんた達だよ」と言ってくれる。心強い。
炉ばたは、小田島夫妻の出会いの場所でもある。男30の決断は早かった奥さんは若かった。この結婚式は、ぼくが仕切った。発起人であり、世話人であり、司会者であり、納入業者であった。お祭り騒ぎのなかにも格調高く声高くをコンセプトに、仲人は茶畑御夫妻、そしてフラニスト達。楽しい思い出に残る、結婚式のなかの結婚式であった。
出席した炉ばたのママが言った。「いい結婚式だったょー。おもしろかったから、もう一回やろうょ」。この祝福の言葉を胸に人生の本格的なスタートを切ったのだ。オフィスフラノを始めたばかりの一番辛い時期だったと思う。甘さはなかったかどうかは分からない。残念ながら、新婚旅行は取りやめ、結婚式の次の日から「麓郷の森」建設に、社長として、男として、新婚の夫として、黙々とログハウスの木の皮むきをしていた。そして、手の皮むけて、男として一皮むけた。そして、奥さんはより一層愛をかたむけた。
正に、ここから富良野が、時代が、新しい流れとなって動きだしたのです。ここまでよくやった。
苦節10年。しかし、小田島に苦労話は似合わない。ここからなのです。世界に通用するフラニストとして期待します。
最近、小田島の目が笑わなくなった。