〈小田島忠弘を語る〉
この原稿はFNWL誌とは直接関係ない。日里さんがこの本のために"特に"書き下ろしたものである。ぼくが依頼した訳では勿論ないが、「発行人としてオレにも、何か書かせろ!」と言われ、仕方なくこういう次第になった。
ある有名人が自分で撮った作品の写真展を見たことがあったが、なんと、本人が写っているものが何枚かあった。どう見ても、自動シャッターで撮ったものではなかったのに。この原稿を渡された時に、そのことを思い出した。
ま、とにかく、読んで下さい。
小田島と決定的な出会いをして10年。
二人を引き合わせたのは、言うまでもなく青年会議所であった。ある会議で、「ソ連の情勢は…、北の防衛は…、北方領土は…」と得々と話し、果てはソ連の脅威論まで語り始めた。関係書を2、3冊読んだのか、流れるように力説していた。
マジか?真面目だ。内心笑ってしまった。「あの建具屋の小田島が!」。でっかくなったな、体が、態度が。しかし、確かに少し垢抜けてはいた。
友達にはなれないなと思いつつ、東京帰りのUターン組、零細企業の後継者、ちょっとおしゃれ、何もないが何かがある。違う、どこかが違う。匂いが、育ちが、品が。目の離せない奴、気になる奴、と興味は持った。
子供の頃から顔と名前は知っていたけれど、「背が小さく、妙に愛想が良く、少し頭のイイ子」ぐらいで、印象は薄かった。ぼくは、俗にいう士農工商の商で、小商人としてのセンスは自信があるが、残念ながら文化水準は低かった。
大人になった小田島は、ぼくとは少し違った。趣味が広いのだ。ジャズに読書、絵画に山頭火、写真に映画、運動部で育った小商人にないものが、いっぱいあった。
文化というか、教養というか、物を見る視点、話のセンス、話題のすべてが新鮮だった。とにかく、いつの間にか、訳の分からないまま意気投合の、グレートトウゴウになってしまった。
歴史的な小田島・日里コンビの誕生である。それからは、毎日、朝昼晩と顔を合わせ、「小田島、何してるベー」と思っていると、電話が鳴るか、玄関の前に立っていた。何をするのも一緒。先輩方には、二人で一人前、一人じゃ中途半端、帯に短し襷に長し、双子のリリーズ、と、なんだかんだ言われながらも楽しく、明るく、元気よく、下積みの時期を過ごした。
小田島は思い込みが激しく、憧れが強く、先読み、ヘタ読み、斜め読みをするのが得意なので、理解する人は少ない。生意気、あの野郎、お調子者。これが、小田島の形容詞である。しかし、センスの問題なのである。小田島のセンスは違うのである。周りを見る目、自分を見る目、富良野を見る目、日本を見る目、世界を見る目、が違うのである。
出会った当時は、自分の街を真剣に語る人は少なかった。刺激も少なかった。ぼくらも幼かった。しかし、ぼくらは日常会話で世界情勢を、日本を、そして富良野を、真剣に、真面目に話してきた。生意気な言い方をすれば、その時代時代のコンセプトを確認していたのだ。
そんな中で小田島は、富良野のために何が出来るのか、何をすべきか、何故しなければならないのか、自分の生き方は、立場は、役割は、などを考え合わせて判断するトレーニングを知らず知らずのうちに、ずっとやっていたのである。
だから凄いとかの、話ではなく、少なくても小田島のアイデンティティを理解出来ない人は、21世紀を生き抜けることは出来ないし、取り残される。ぼくは小田島に人生を賭けるつもりは勿論ないが、理解者の一人として応援できればと思う。
ミニコミに始まり今この本を出そうとしている自分たちに感動感激勘違い、久しぶりの快感です。語り尽くせないほど、言葉にできないくらい面白い出来事が沢山ありました。つねに認め合い、影響しあい、刺激しあった結果かなと、ふっと思う。自慢じゃないけど、この10年の小田島の"青春"は、すべて知っています。
毎晩、毎晩「炉ばた」に通った。すべてのことが、炉ばたから始まっているし、マスターもママも本当に応援してくれた。お金に変えられない財産である。ママはいつも、「これからの富良野は、あんた達だよ」と言ってくれる。心強い。
炉ばたは、小田島夫妻の出会いの場所でもある。男30の決断は早かった奥さんは若かった。この結婚式は、ぼくが仕切った。発起人であり、世話人であり、司会者であり、納入業者であった。お祭り騒ぎのなかにも格調高く声高くをコンセプトに、仲人は茶畑御夫妻、そしてフラニスト達。楽しい思い出に残る、結婚式のなかの結婚式であった。
出席した炉ばたのママが言った。「いい結婚式だったょー。おもしろかったから、もう一回やろうょ」。この祝福の言葉を胸に人生の本格的なスタートを切ったのだ。オフィスフラノを始めたばかりの一番辛い時期だったと思う。甘さはなかったかどうかは分からない。残念ながら、新婚旅行は取りやめ、結婚式の次の日から「麓郷の森」建設に、社長として、男として、新婚の夫として、黙々とログハウスの木の皮むきをしていた。そして、手の皮むけて、男として一皮むけた。そして、奥さんはより一層愛をかたむけた。
正に、ここから富良野が、時代が、新しい流れとなって動きだしたのです。ここまでよくやった。
苦節10年。しかし、小田島に苦労話は似合わない。ここからなのです。世界に通用するフラニストとして期待します。
最近、小田島の目が笑わなくなった。 |