日 里  雅 至   MAY 5,1951(にっさとまさし)
日里さんの目は笑わない
日里さんとは前世からのつながりがあると確信している。ぼくは昭和54年に富良野に戻り、すぐ青年会議所に入った。一年遅れて入会した日里さんとそこで初めて出会った。以前から知ってはいたけれど、顔を会わせれば挨拶をする程度の間柄だった。いまから考えるとぼくの人生において、Aランクの出来事だった。もちろんその時は、結構面白そうな人だなぁぐらいの感じだったと思う。日里さんは子供の頃、生徒会長をしたり、健康優良児に選ばれたり、野球大会で活躍したりと、明るい少年時代を送ったようだ。生まれも5月5日で、正に、おめでたい人だ。このように光を浴びながら、なに不自由なく、ぬくぬくと間抜けな大人になったかというと、実は、そうでもないのだ。きもの屋の三代目として、祖父と父にちゃんと商人としての教育を受けていたのだ。全体としてはチャランポランな感じがするけれど、きちっとしなければいけないことはきちっとするのだ。
ぼくもそのことではずいぶん勉強させてもらった。例えば、お金のこと。どんな小さな金額にでも気を配る。出すときは、すぐ出す。人に対してはむしろ甘い方だと思うけれど、ぼくはそれでおおいに助かっているのだが、自分にたいしては細心の注意をはらっている。払えるお金があるからとかの問題ではなく、日里家の家訓にでもあるのかと思ってしまうほどだ。本人が無駄使いするかというと、ぼくなんかよりずっと使わない。つまり、お金に対してちゃんとしたポリシーをもっているのだと思う。本人が意識しているかどうかは別にして。  商売に関しても、ぼくなんかとはまったく違う。筋がね入り。いまの仕事を始めた頃よく話を聞きにいった。商売の常識とかしきたりとかぼくは全然わからなかったからだ。でも、日里さんとの付き合いはそればかりではなく、ぼくの生活そのもの、いや人生そのものになっている。ぼくが関わったすべてに日里さんも関わっているし、ぼくがやったことのすべてにも日里さんは関わっている。簡単に言うと、日里さんがいなければ ぼくは成り立たないのだ。
日里さんには随分助けられた。ぼくはどちらかと言うとすぐ熱くなる。思い込みも人一倍激しく、あまりまわりを見ないで突っ走る。若さのせいもあったけれど、とにかくそうだった。先輩たちはそんなぼくを危なくて見ていられなかったと思う。かなり色んなことを言われた。いわゆる、小言というやつ。ぼくはカーッときてなおさら突っ走る気になる。日里さんはそんな時に必ず、冷静に判断をしてくれ、きちっと納得させて、ぼくをなだめてくれた。日里さんがいなければ何も出来きなかったのはもちろんのこと、ぼくは完全に潰されていただろう。
日里さんとぼくの進んでいく方向は違う。日里さんは青年会議所の理事長としての成果を上げてから、ますます若い人の信頼度が増し、何か若い人の頂点に立った行動を起こしそうだ。例えば、政治的な立場を築くような。ぼくはといえば、自分の仕事を拡大していくなかで、政治というより経済人として、富良野なり富良野の人達のお役に立ちたいと思っている。それにしても、日里さんとはよくもまぁ続いたものだ。色々なことを始めてもう十年になる。ミニコミ誌フロム・ノースランド・ウィズ・ラブ、ふらのフラフラコンサート、フラニストの会、若いじっこの会、いいふりこきのがんべたかりの会などなど。その活動は、ある意味ではぼくたちの「青春」だったのかもしれないと思う。その一つ一つに思い出や思い入れ、楽しかったこと、嬉しかったこと、辛かったこと、悲しかったことが詰まっている。いま、日里さんとぼくを支えているものや形づくっているものは、この十年のこの活動だったのだと気付く。