宮 川  泰 幸   JUN 3,1941(みやかわやすゆき)
宮川さんはいつも励ましてくれる
宮川さんはぼくらと一時代上の人達との間に位置する人で、ものすごく人脈が多岐にわたる。とにかく色々な人を知っている。何か困ったことや相談ごとがあるときはいつもお世話になる。ほとんどのことが解決する。人柄が温厚で、何でも受け止めてくれる。漠然と抱く親父とか兄貴のイメージってあるでしょう、そういう感じのする人だ。
ぼくは個人的に随分お世話になりました。物事を自分なりに考え込んでいくと、知らず知らずのうちに自分に都合の良い方向に向かっていき、結果として独りよがりの間違った答えを出してしまう。こういう危険のある時は迷わず宮川さんのところに行く。ちゃんと教えてくれる。大局を見た中で判断してくれて、なおかつ大胆なのだ。 そして最後にいつもこう言ってくれる。
「僕が出来ることは何でもやってあげるから、自分で良いと思ったことはとことんやりなさい。若いうちにしか出来ないことが沢山あるのだから」と。
宮川さんも若い頃から色々なことをやってきた。市長にという声も現実として上がったことがある。ぼくから見れば好きなことを好きなようにやってきたと羨む気持ちにもなるけれど、本人にとっては多少後悔みたいなものがあるのだろうか。おそらく、後輩は何でもいいからやり遂げてほしいという思いが、ぼくらにまで親身になってくれるのだろう。ほんとに頼りがいがある。 人とのつき合いでも裏を読んだりしないで、 誰とでも真正面につき合う。この辺が幅広い人脈を持つ秘訣だと思う。

宮川さんも青年会議所の理事長の経験者で、理事長時代(昭和52年)には今や北海道の祭りの一つに成長した「北海へそ祭り」隆盛の基礎を作った。当時はまだ小さな商工祭りでしかなかったのだが、将来を見据えた取り組みをJC全体として行ったという。
宮川さんは現在、特別養護老人ホーム「北の峯ハイツ」の園長をしている。ハイツは社会福祉法人「富良野あさひ郷」の一部であり、他に精薄者更生施設「北の峯学園」がある。この富良野あさひ郷は地元の人達の情熱と熱意で出来上がったもので、富良野が誇れる自慢の一つなのだ。特に学園生が一般客と接する「コミュニティーロッジ富良野」は、レストランふらぬい、茶房あしわけ、地域交流ホーム北の峯山荘、北の峯野外ステージを有するとてもユニークなもので、全国的に注目をされている。北の峯学園の荒川園長は、障害を有する人々のごくあたり前の生活とはなにか、が一大テーマだとおっしゃっています。宮川さんは設立当時から理事として参加し、昭和63年からハイツの園長として荒川園長とともに富良野あさひ郷の運営に直接タッチしている。
それ以前は倉本先生と富良野の人達で作った「北時計」の代表をやっていた。北時計は昭和57年に富良野を訪れた人々と富良野についてのことや自分のもっている夢などを話せる場として誕生した。つまり富良野の人と富良野を訪れた人とのパイプとしての役割。北の時計はゆっくり時を刻むという倉本先生の言葉から北時計と名付けられ、 ドラマ「北の国から」の資料も豊富に揃っている。今も大勢の人がやってきます。

倉本先生が主宰する、俳優と脚本家を養成する「富良野塾」では、仲世古さん、茶畑さんとともに理事あり、塾生の面倒を見たり、色々な面で塾を支えている人の一人だ。
富良野塾は昭和59年に市街地から20km離れた布礼別の谷間で始まった 塾生自らが住むところや稽古場、ゲストハウスなどを丸太で建て、夏には慣れない農作業の賃金で自らの生活を支える。もちろんそんな中で講義もある。「人間は感動することからすべてが始まる。肉体労働の辛さに驚くのも感動の仕方。忍耐力もつきます」とは、倉本先生のお話。富良野塾については「谷は眠っていた」(倉本聰著)をお読み下さい。

宮川さんと言えば忘れられないのが、昭和61年の「富良野森林フェスティバル」。実行委員長は旭川営林局支局長だったけど、実質的には宮川さんがすべてを仕切った。 とにかく大変なイベントだった。ぼくらの関わりで、これほど大規模なものはもうないだろう。フェスティバルは三本の柱からなっていた。一つはシンポジュウム、もう一つはこれがメインだったのだが、森林(もり)の音楽会、そして森林とともに。
シンポジュウムはパネリストにC.W.ニコル氏を迎え、森林の重要性を訴える内容で、参加者数百人。音楽会は和太鼓奏者林英哲氏が森をバックに壮大な演奏をし、それに続いて倉本先生作詞、宇崎竜童作曲の「森よ還れ」を宇崎氏自身が歌いはじめ、出演者はもちろん参加者、先生の呼掛けで集まった人達、田中邦衛、竹下景子、吉岡秀隆、中嶋朋子(北の国から出演者)、天宮良、布施博、梨本謙次郎(昨日悲別で出演者)、陣内孝則、室田日出男、中原ひとみ、清水国明各氏全員で大合唱、参加者2千人。森林とともには原始ヶ原七つの滝めぐりコース、渓流釣りコースなどに分かれて森林に親しむ、参加者2百人。メニューはざっとこんな感じなのだが、実行するとなったら、それはそれは大変だった。音楽会の会場が原始ヶ原という山奥、道路が細くて参加者が車で上がれない。途中の広場までは何とか車を使って参加者を運ぶことが出来たが、そこからは徒歩、まだ3km近くある。悪い事に当日は雨。行きはそれでもまだいい方で、帰りは真っ暗、幸い雨はやんでくれたが下はぬかるみでドロドロ。よく誰も文句も言わずに順序よく降りてくれたものだ。手伝っていたぼくでさえ、ハラハラしたのに宮川さんの胸中は如何に、と言ったところだった。
もちろん大変なのはこのことだけではなく、イベント全体に通して言えることなのだが一回でもイベントを手掛けた人ならすぐ分かると思う。見た目よりずっと大変だ。その割に報われない。物好きな奴、ぐらいに思われるのがオチである。では何故そんなことをするのか。終わったあと、成し遂げたことの充実感は堪えられないということもあるが、ぼくはイベントには諸々のことが凝縮して詰まっていて、それに関わることで色々な勉強になると思うからだ。それは会社に喩えられることも出来るし、極端に言えば人生に喩えられることも出来る。内部的には資金、人間関係、企画、お金や物の管理など、外部的には広報、集客、出演者等の接待など、そしてなにより大切なことは主催者側のやる気と参加者に満足してもらいたいという気持ち。純粋で尊い気持ち。 イベントを成功させるにはそれらのすべてがうまく噛み合わないと駄目だ。こんなに勉強になるものは他にない。このイベントだって決してスムーズに進んだ訳ではなかった。最初は誰が中心になるかすら決ってなく、漠然としたなかでやることだけが決っていった。宮川さんが引き受けてくれたから良かったものの、もし宮川さんに断わられたら、ぼくらのグループは木端微塵になっていただろうし、とんでもないことになっていたと思う。決断した時の宮川さんは頼もしかった。
何も分からないでこのグループにくっついてきたぼくが、物事の進め方をおぼろげながらこの時初めて理解出来たような気がした。それは、やるときはやる、という態度。かぶるときはかぶる、という態度だ。実は ヘッドが決まれば後はそう難しいことはない。
ヘッドに言われた通りにやればいいのだから。商売でやっている訳ではないから、最終的にはヘッドのために頑張るという構図になる。このイベントの場合だと、イベントそのものの成功はもちろん大切だが、それ以上に「宮川さんのため」だったのだ。イベントは「誰」がヘッドをやるかで、すべてが決まると言っても過言ではないと思う。
資金はチケットの販売と大手企業の協賛で賄えたし、人的なことも青年会議所のメンバーや市役所、営林署の人達がやってくれた。終わってみれば、大成功だった。このイベントはドキュメント番組「富良野森林フェスティバル」としてフジテレビ系で放映された。

宮川さんは最近、もう僕達の時代じゃない君達の時代だと言う。
だけど、まだまだぼくたちの力ではどうにもならない事ばかりです。ご迷惑でももう少しのあいだ面倒を見て下さい。お願いします。