宮川泰幸編
〈フィアンセへの手紙〉

大学四年の秋、私の結婚相手は決ってしまった。他人事のような表現だが、とにかくこんな表現がピッタリくるのだからおかしなものである。今もおたがいに、夫婦ともども、おつきあいをいただいている友人木村隆治氏に紹介されて、私の妻となった恂子に会った。その夜は、数名の若い男女が、一緒に食事をしたり、ハイボールを飲んだりのパーティーだったが、この初対面のときに、何故か「俺はこの娘と結婚することになるな…」と感じた。
当時、北大の学生は四年の六月頃には、就職が百パーセント決定していたのだが、雪が降ってきても私だけは決定していなかった。私の学部では、私だけが残っていた。就職試験を受けていないのだから、決まるわけがないのだが、とにかく無頓着であった。ゼミの林教授も、私のことを「君は、昔なら髪結いの亭主、今ならパーマ屋の亭主が似合う」などと失礼な断言をする有様。
こんな状態にもかかわらず、結婚相手が決ってしまった。婚約してしまったのだ。
私の行動パターンは、昔も今も変わらない。変えようにも、変わりようがないから、変えようとも思わない。
先日、押入れの中にダンボール箱に一杯つまった、たくさんの手紙をみつけた。何と私の筆跡である。菊池恂子宛の手紙である。想い出した。卒業して、大阪のコンピューターソフトウェアの会社に就職してから結婚式を挙げるまでの七ケ月程の間、書きまくったのである。ダンボールの手紙を調べてみると、週二回くらいのペースで、一回に便箋十枚以上しかも速達で投函していた。毎日帰社してから、日記のように手紙を書き、三日分くらいをまとめて投函していたのだ。
手紙魔である。納得いくことがある。
手紙がおしゃべりに変わってしまったのだ。結婚してからは、手紙の必要もないので、ピタッと書かなくなったが、その分、恂子とはよくしゃべるようになってしまった。倉本先生から、夫婦でカナダ旅行を招待いただいたとき、一緒した茶畑夫婦が、私達夫婦のおしゃべりにあきれはてていた。約二週間、眠っているか、食べているとき以外は、たわいもないことをしゃべっていたのだ。比較的寡黙な私が、恂子にたいしてはどうも饒舌になってしまう。
最近とみに、酒を飲んで帰ると一層おしゃべりである。
「危険だなあ…」とつくづく思う。