佐 々 木  淳   APR 13,1947(ささきじゅん)
ジュンさんは一本気
最近ジュンさんはよく喧嘩をする。もちろん酔いが回ったときがとくに危ない。小学校から高校までエース4番で白球を追いかけ、大学では少林寺拳法で有段者にと、いわゆる運動部的体質のなかでジュンさんは人格を形成してきたと思われる。善し悪しはべつにして、ジュンさんを考えるときこのことがまず頭に浮かぶ。ぼくが直接目撃した事件は、ジュンさんも含めて仲間数人と飲んでいたのだが、俗に「ジャケットボタン散乱事件」と言われている。いつものようにぼくたちは陽気にカラオケなんぞで盛り上がっていた。ジュンさんは長身だが、やさしい顔つきの見た目には文化系のお人好しのフツーのお兄さんに見える。しかし、ひとたびステージに立つと人を引き付ける。歌がうまいこともあるが、派手なのだ。華があるのだ。ジュンさんは子供の時から目だっていて、いつもリーダーシップをとっているタイプの人だと思う。ぼくはそういう人が大好きだが、世の中にはそういう人が嫌いな人もいる。隅の方にそこだけスポットが壊れたようなクラーイ一団がいた。 感じからして後者の人達だと直感した。ぼくは内心まずいなぁと思った。職業がそっち方面の特殊な人達ではないのは分かっていたが、相手だって酔っているはずだ。普段なら社会の常識通念に照らし合わせて物事を判断する、普通の市民だと思うけれど酔っぱらっていた。最悪なことに、こちらには知合いの若い女性も合流していた。「言いたいことがあったら、はっきり言いなさい!」トーンの上がった、それでいて妙に慇懃なジュンさんの声が、他のことで盛り上がっていたぼくたちの耳に飛び込んできた。相手はブツブツ何か言い返している。いきなりジュンさんは相手の紺色のジャケットを掴んだ、その拍子に金色のボタンが勢いよく飛び散った。結局、双方の取り巻きが間に入ってことなきを得たのだが、一つの事件として、ぼく達の記憶にとどまることになった。
ジュンさんから絡むことは絶対ない。ぼくらもムッとすることはあるけれど、しょうがないなぁ、あのバカで済ませてしまう。ジュンさんは許せないのだ。とくに最近は許せないのだ。どういう回路でとくに許せなくなったかは、人のことだから分からないが気持ちは分かるような気がする。ひどすぎるもの。戦後民主主義の弊害と言おうか、この頃は誰でも何でもしゃべる。その裏には何をしゃべっても、どんな間抜けなことをしゃべっても、普通の人なら怒らないし、ましてや暴力なんて振るうはずがないという前提が、意識するとしないとに関わらずあるということだ。まわりの人達の是非も何を言ったかではなく、何をやったかに関してのみ論じられる。なにもぼくは暴力を肯定するわけではないが、本質は何処にあるのかをもう少し考えてほしいと思っているのだ。いまの若い奴というフレーズは太古の昔からあるそうだが、敢えて言わせていただくが、いまの若い奴は本当に良くない。色々な意味で良くないと思っているが、リスクのないところでの勝手な振舞い、無意識に裏を見越した行動は本当に良くない。ジュンさんの許せないと思う気持ちを察すると、ぼくはそのへんのことかなと思う。実際、ジュンさんのその他のトラブルも同じ根から発していると思う。とはいうものの、ジュンさんはこれからの富良野にとって、あらゆる意味で重要な人なのだからもう少し注意してほしい、とも思う。
しかし、ジュンさんのこういう人柄からか後輩の信頼度はとくに高い。青年会議所の若い人からへそ祭りを盛り上げようと、富良野神社に眠っている、女みこしを担ごうという話が持ち上がった。この手の話はすぐ盛り上がるのだが、なかなか具体的に煮詰まっていかないものだ。この時もそうだった。ジュンさんがJCの理事長経験者だということもあって、「女みこしを担がせる会」の会長にと頼まれ、引き受けるとたちまち形になった。 ジュンさんがやるのなら、俺もやるという人が沢山いるからだ。もちろんぼくもその一人なのだが。女みこしは、今やへそ祭りには欠かせないものになっている。

ジュンさんと会ったのも青年会議所だった。もっともぼくと同じ大学、東京経済大学の先輩という関係で以前から名前だけは知っていた。しかし、年も離れているしどんな人かは全く分からなかった。初めて会ったときのジュンさんは坊主頭で、ゲタを履き、真っ青のワイシャツに水玉のネクタイという吹き出しもののイデタチだったが、爽やかな好青年、ただいま売り出し中っていう感じだった。ジュンさんは真面目は真面目なんだけれど、基本的には粋の人だと思う。俗っぽく言うと、芸人なのだ。ぼくらのやる会にはなくてはならない人で、ジュンさんがいないと始まらない。
もうだいぶ前のことになるが、富良野におすぎとピーコさんが来たことがある。ピーコさんが松茸を持ってきてくれたので、当日のメニューは松茸鍋と決めた。いつものメンバーが集まった。会が頂点にさしかかったとき、おすぎとピーコさんがパフォーマンスを始め大喝采を浴びた。そこに負けじとジュンさんのパフォーマンス、振りを付けながらの即興詩。これにはおすぎとピーコさんも大受け。あの時の凄さは一生忘れない。

ぼくらは毎年1月1日の元旦に、歌会始めを開く。倉本先生と富良野塾の塾生も参加し、正月から盛り上がる。この会もジュンさんがいないとつまらないものになってしまう。まず最初に先生から、年頭教書が述べられ、引続き先生直筆の「お題」が発表される。
一同どよめく。なかなかいいお題だ、もっといいのなかったの、誰かに漏らしてないでしょうねとか色々いいながら、みんな真剣な顔になり短冊とにらめっこになる。あと10分で締切まーす、いつものように日里さんが仕切って行く。 だいたい一人2、3遍作り、数十遍が提出される。審査は倉本先生の独断で決められる。悪いことに先生の選ぶ基準がその時々で違うのだ。正統派のが良かったり、捻ったのが良かったり、ひどい時になると、下ネタが優勝したりする。作品が集められみんなに披露されるわけだけど、この詠み人がジュンさんなのだ。ジュンさんは詩吟で鍛えた美声で次々に歌を詠む。
歴代の優勝句を紹介すると、アロハオエ・滑って転んで・高見山。これは日里さんの句で、お題は先生のドラマ「波の盆」が芸術祭大賞を受賞したことにちなんだ波の盆。波の盆はハワイを舞台にしたドラマだったのだ。この時の会は歌会始めの原型になった会で、ある意味では歴史的な会であった。さすがにジュンさんもこの歌は詠みづらかったようだ。昨年の歌会始めの作品を一部紹介すると、お題「今年こそ」で、優勝は今年こそ・サハラ砂漠を・探検し・石油堀当て・うまいもの食う(塾生の宮崎遊子)、塾生の心情が良く出ていると先生評。優秀作に選ばれたのは、初夢に・かける願いの・心意気・妻の誘いに・夜霧よ今夜もありがとう(本間優さん)、シュールな感覚が良いと先生絶賛。今年こそ・燃えに燃やすぞ・うちの奴・こそこそ燃やす・よその嫁さん(ぼく)、バカバカしいけどおもしろいと先生。ジュンさんはどの歌も手を抜かず いや喉を抜かず詠み上げる。ジュンさんいつもありがとう。

ジュンさんは佐々木製麺所の専務だ。つまりラーメンやそば、うどんを作って、スーパーなどに卸しているのだ。最近、生ラーメンともインスタントラーメンとも違う、乾燥ラーメン「ふらのラーメン」を売り出した。富良野で売るのはもちろんだが、遠く名古屋まで出かけて行って売っている。知人に紹介してもらった東海ラジオでラジオショッピングに出たら、予想以上に売れて、それから注文があるそうだ。どちらかと言うと地元でしか商売にならないラーメンを全国レベルで展開しようとしている、ジュンさんは立派です。手伝えることがあったら、何でもしますから言って下さい。ジュンさんはぼくたちのエースなのですから。