茶 畑  和 昭    MAR 1,1946 (ちゃばたかずあき)
やっぱり、茶畑さんからはじめます
「オレの本当の夢は、例えば、小田島さんがものすごく立派になって、世界中を駆け巡っているとするじゃない。久しぶりに富良野に帰ってきた小田島さんを、街中でもてなすわけ。年取ったオレはそこら辺で草むしりをしている。そこに挨拶をするために小田島さんが立ち寄るのよ。するとみんなが『どうして、茶畑のところに?』と不思議がるわけ。オレはうれしそうに『ヤー』と軽く手を上げて、また、もとの草むしりを始めるのよ」
茶畑さんが"今"の富良野を作ったと、ぼくは信じている。 ぼくが茶畑さんに最初に会ったのは昭和54年、青年会議所(JC)でだったが、その印象は強烈だった。富良野高校から東京の大学に行き、卒業後婦人服関係の会社に四年間勤めて、いわゆるUターンで戻ったぼくには、まったく新しいタイプの人間に見えた。東京では疲れきったサラリーマンが圧倒的で、茶畑さんのように何事にも積極的で、楽しそうに人生を送っている人なんて一人もいなかった。仕事にも、JCにも、人付き合いにも、いや、茶畑さんにはそれらの区別すらなくて、すべてをひっくるめて生きていることなのだ。
それからというもの、毎日、ほとんど毎日、おじゃました。正に、お邪魔だったと思うが、狐にでも憑かれたように通いつめた。東京に住んでいた時は、過剰な情報やテンポの早さについて行くのが精一杯で、これではイケナイと富良野に戻ったものの、富良野の仕事もうまく行かなくて、ワラをも掴む気持ちがあったのかもしれない。もちろん茶畑さんはワラのようなヤワな人ではなく、どちらかというと丸太に近い人だが、行く度に色々な面白い話や"ため"になる話をしてくれた。いつしか、この人の言うことをちゃんと聞いて実行すれば、何か新しい人生の可能性が開けるのではないかと、おぼろげではあるけれど確信するようになった。
そのうち茶畑さんに「これ、ちょっと手伝ってくれないか」とか「こんな事、出来ないか」とか「こんな事、やってみろ」みたいなことになって、実は、今のぼくがあるわけなのだ。
イヤーほんとに、茶畑さんには色んなことをやらせてもらった。一緒にやった他の人や代表とか推進した人もそれぞれいるけれど、そのすべてが茶畑さんからはじまっていると言っても過言ではないと思う。茶畑さんがいなかったらおそらく何も生まれなかっただろうし、出来たとしても違う形になっていただろう。日本夜味なべ協会、丸太小屋を守る会、フロム・ノースランド・ウィズ・ラブ誌、砂金採りツアー、劇団ラ・ノンブリ、歌会始め、フラニストの会、麓郷ラングラウフ大会前夜祭、倉本サンタのクリスマス、ふらのフラフラコンサート、芸術祭大賞受賞祝賀会(波の盆)、小学館文学賞受賞祝賀会(北の国から '87初恋)、山本有三記念路傍の石文学賞受賞祝賀会(北の国から)、濃痔組合阿呆人富良野濃狂、麓郷の森、日没コンサート切株の上のヴァイオリン弾き、農村花嫁対策ビックじかたびツアー、ゲタばき映画祭、なまこ山でふるさを語ろう会、各種講演会など。そして、イカダくだり、北真神社(へそ神社)、北時計、富良野塾、森林フェスティバルなどがある。表面に出てきただけでこれくらいなのだから、その数は計り知れなくあると思う。

茶畑さんの「街づくり」は、もちろん茶畑さんは街をつくるという考えはないだろうが、麓郷に住んでいた20代の時にその原点がある。麓郷という地区は富良野から20km離れ、「北の国から」のロケに使われている小さな村落だ。茶畑さんはここの出身で、20代のある時期住んでいた。ある時、「こんな田舎でも、子供たちが誇りに思うようにさせたい」と思ったそうである。今でこそ自然問題や環境問題がクローズアップされ、田舎が見直されているけれど、当時は見捨てられた単なる過疎地に過ぎなかった。
茶畑さんは早速、家を改築して布団を買い込んで、十数人が泊まれるようにした。茶畑さんのアイデアは麓郷の冬の雄大な自然環境はノルディックスキーにぴったりなので、その合宿所を作って日本の代表選手やそのタマゴ、ひいては世界的な選手を麓郷に呼んでくる。そうなると自然に麓郷の子供達もノルディックスキーに興味を持つし、集まった選手がいいコーチにもなってくれる。新聞やテレビに出る有名な選手に身近にもなれるし、身近だけに自分も有名な選手になりたいと思う子供も出てくる。つまり、ノルディックスキーを通して子供に誇りをもたせようと言うのだ。
普通なら、人を集めて、会議を開いて、ああだこうだ時間をかけて、結局何も進まない。茶畑さんのすごいところは、やれることからまず始めてしまう。しかも、リスクも初めから自分でかぶろうとする。布団を買い込む。茶畑さんの原点はここに尽きる。
結局は麓郷の小中学校ではノルディックスキーが「国技」のようになり、冬になるとその競技結果が新聞紙上を賑わすし、日本的な選手も何人か出るようになってきた。そして、毎年三月には「麓郷ラングラウフ大会」という、歩くスキーの大イベントが開催されることになった。

仕事の関係で麓郷から富良野に出てきた茶畑さんのフィールドは青年会議所(JC)になる。JC活動の中から、倉本先生との歴史的な出会いが、実はある。今は、倉本先生とは後述する仲世古さんとともに一番近い存在で、先生の富良野での仕事には必ずと言っていいほど関わっている。もしかしたら「北の国から」のシナリオは茶畑さんが書いたのではと噂が流れたことがある。それくらい密接な関係にある。もっとも今では、噂の元は茶畑さん、が定説になっているが。まじめな話、昭和52年から倉本先生は富良野に住んでいるけど、田舎の良さと同じくらい田舎の住みづらさもあるわけで、例えば図々しく人の生活に土足で入ってしまうとか、茶畑さんはかなり先生を護ったと思うよ。そのぶん富良野で嫌われたり、敵を作ったけど。その辺のところも、もうちょっと評価されてもいいと思う。ぼくは。
とにかく、倉本先生関係の各種のイベントにも茶畑さんの独特なやり方、アイデアは遺憾なく発揮され、ぼくはものすごい勉強になった。一見くだらないと思うこともあるけれど、よーく考えると実は色々な「答え」が隠されていた、なんてことはしょっちゅうだった。もちろん茶畑さんはいちいち説明はしない。いつも、身をもって、なのだ。
ある意味では、マジメなことをマジメにやることは簡単だと思う。マジメにやればいいのだから。世の中そんなに甘くないのはみんな知っていて、マジメなことを面白そうにマジメでないように見せ、結果的にマジメにやった以上にマジメな答えがでるようにするのが大変なことなのだ。そして、このことをきちっと理解出来なくては、何をやっても何にもならない。「街づくり」などというものは特にこのことが大切だと思う。一生懸命、街をつくろうとして、かえって駄目にしていると思えることがいっばいあるもの。真面目にやればいいってもんじゃないんだ。センスが必要なのだ。いや、街づくりとはセンスなのだ。茶畑さんのセンスは相当のもんだよ。麓郷の山奥で生まれ育った人とは思えないもの。もっともセンスなんてものはその人間にくっついているものだから、何処でどんな生き方をしていようと関係ないけどね。

僭越ながら、茶畑さんを分析してみると、まず器用ということが上げられる。電気工事の会社をやっているのだから、手先が器用なのは当り前かもしれないが、ツアーキャンプなんかをやるとすぐに即興で何でも作ってしまう。ランプやらテーブル、イス、カマド。芸術的にも器用で、森林フェスティバルのポスターや倉本先生創作の小人「ニングル」のイメージイラストを描いたり、彫刻に至っては玄人ハダシで、とてもすばらしい作品を何点か見せてもらったことがある。
そして、マメ。興味をひかれたものがあると、すぐ見に行く、すぐ調べる。よく、いまから旭川行くから、札幌行くから一緒に行かないかって、突然電話が掛かってきた。どんなに仕事が詰まっていても、どんなに奥さんが睨んでいても、必ず走った。ぼくも一度だって断ったことはなかったが、その時の事がいま非常に役にたっている。何から何まで、ぼくは茶畑さんの影響を受けているのかもしれない。
あと、茶畑さんは何をやっても手を抜かない。ほんとに細かいところまで気をくばる。昔そうとう痛い目をみたとしか考えられないほど慎重だ。用意周到だ。そして、人の心を思いやることにも手を抜かない。自分より年下の人でも傷つけないように色々細工するし、茶畑さんが言うと角が立つときは、他の人に頼んだりする。一つのことを進めるときの人間関係の周辺整備みたとなことは完璧にやるし、成し遂げたあとには、誰が一番表に出たら徳かを考え手柄をその人にやる。若い人には自信をつけさせるために、先輩には敬意を表して。

ぼくがここでどんなに頑張っても茶畑さんを伝えることは出来ない。そんなスケールの人ではないのだ。出来れば直接会って話してほしい。そして感じてほしい。とにかく話は滅茶苦茶おもしろいし、発想に至っては何度も目から鱗が落ちるはずだ。人を惹き付ける能力も抜きんでていて、会っていると不思議に力が湧いてきて、 「ヨーシやるゾ!」という気になってくる。 一時期、茶畑さんを教祖に新興宗教をでっち上げ、ひと儲けしょうというアイデア?が語られたこともあった。その辺のすさまじさと馬鹿馬鹿しさの一端は、茶畑さんの愛称“チャバ”で出てくる「北の人名録」「冬眠の森」「ニングル」(倉本聰著)をご覧になれば分かりますので、是非一読を!

茶畑さんを誉めてばっかりもいられないので、ちょっと残念に思うことを最後に。それは、茶畑さんはあまりにも自分に対して厳し過ぎるというか、自信がなさ過ぎるというか、何事にも一歩踏み込む勇気が足りなかったように思う。出来ればぼくは、茶畑さんのせっぱ詰まったギリギリでの頑張りを見たかった。いや、まだ過去形ではないのだ。富良野は始まったばかりだ。やっとスタートラインに着いたところだ。最近、年齢的なこともあるのだろうが、少し迫力が薄れたような気がする。この項の最初に書いた茶畑さんの言葉の気持ちはよく分かるけれど、これからまだまだやってほしいことがいっぱいある、とぼくは言いたい。富良野はこれからが正念場だ。茶畑さんは間違いなく一つのキーポイントを握っていると思う。茶畑さん、富良野にとってあなたは「必要」です。