〈M夫人〉
(1)
あなたは人の会話を小耳に挟んで、すごい話だと勘違いしていて、後で本当のことが分かって「なあーんだ」という様なことが、ありませんでしたか。
こんなことがありました。
十年ほど前、私が会社に入社してすぐ、会社の創立記念パーティがありました。二次会で夫人同伴となり、みんなダンスをしたり、おしゃべりをしておりました。私といいますと、新人で誰もよく知らず、ただ一人で水割りを飲んでいました。そうしているうちに、隣に座っているM夫人のしゃべっているのが耳に入りました。「……この頃ダメなのよ、あの人も私も太っちゃって、おなかがつかえて……」ええッ、なんということを。女性も結婚すると、こんなことも人前でしゃべるのか!とびっくりしました。酒のピッチが上がり、悪酔いしたのを憶えています。 しばらくしてから、その話はダンスの話であることが分かり「なあんだ」となりました。
しかし、どうしてダンスの話だと分かったのだろうか。今でこそMさんと親しくなり、Mさん宅へ飲みにいったりし、M夫人とも話をするようにはなりましたが、ダンスの話だと分かった頃、まさかM夫人に「いやあ、あのときはすごいことをいってましたね」と言うはずがないのです。本当にあれはダンスの話だったのだろうか。
その頃、私は独身で、M夫人はきれいであり、私の好きなタイプであったので、M夫人を神聖化し、M夫人はそんなことをいうはずがないと思い込み、信じたくて「ああ、あれはダンスの話であったのだ」としてしまったのでないだろうか。しかし、M夫人と話をするようになった今、考えると、M夫人はダンスでない意味でいったような気もする。
何が何だか分からない。
(2)
あなたは前の晩大酒を飲んで、翌朝大事な部分の記憶がなくなっていて「何か変なことをしたのではないか?」と不安になったことがありませんか。そして若い頃より年を取った方が回数が多くなっていませんか。
ある部分だけ忘れてしまうのは、ただ単に酒を飲みすぎるため、そして年を取るにつれて酒が弱くなるので忘れる回数が増えるのでしょうか。本当でしょうか。違うような気がします。大酒を飲んで正気では考えられない様なバカなことをしたとき、これを翌朝憶えていたら、悔やんで寝込んだり、蒸発したり、自殺したりするので、大変だということで無意識のうちに記憶を消してしまうのではないでしょうか。安全弁の役割をしているのではないでしょうか。だから、年を取れば取るほどやってはいけないことが増えるので、年を取れば取るほど忘れる回数が増えるのではないでしょうか。
こんなことがありました。
先日、先輩のMさんと飲んでいたときです。街で腹いっぱい飲んで、それから飲みなおそうということになり、Mさん宅にいきました。夜中十二時をすぎてました。寝ていたM夫人を起こして三人でL型のソファに座って飲んでました。M夫人は私のすぐ右、Mさんは私の左ななめ前、バカ話をしながら飲んでいるうちに「ゴーゴー、ガーガー」Mさんが酔いつぶれて寝てしまいました。M夫人は私のすぐ右に、寝間着の上にナイトガウンを着て座っている。
「しめた!」と思いました。
そして朝、目が覚めたら自宅のフトンの中。「アレェ」と思いながら、いくら思いだそうとしても「しめた!」のあとの記憶がない。フトンの中で考えました。「Mさんがイビキをかきだしたとたんに "しめた "と思った」
絶対に何かをしているはずである。
たとえば、それとなく右手をM夫人の膝に置くとか─となれば右手をつねられているかもしれない。右手を触って見ると、なんでもない。色々な場合、場面を考えて身体中をフトンの中で調べても、痛い所はない。もし変なことをして怒られたのなら、意気消沈して帰ってきているはずである。恐る恐る、隣で寝ている妻に聞きました。
「ぼくが帰ってきたとき、どうだった?」「なんだか知らないけど、すごくハシャいでいたわよ」何か良いことがあったのだろうか?としたら忘れたのがくやしい。
その後、M夫人には会っていません。
(3)
あなたは通いなれた酒場や友人宅で、気をゆるしすぎて飲みすぎ、翌朝 記憶はさだかではないが何か変なことをしたかもしれないと不安におちいったことがありませんか?そして失礼なことをしたのが間違いないのなら、その後その人に会ったときの対応のしかたもあるのですが、本当にしたのか、してないのか。何かがあったが怒っていないのか、怒っているが態度にあらわしていないのか、今怒っている風であるが前のことで怒っているのか、それともちょっと前に何かあって気分がすぐれないのか、何が何だか分からない。それで、なんとなくその人や酒場から遠ざかってしまうというようなことがありませんか。
だいぶ前、Mさん宅で飲みすぎて、後半よく覚えていないがM夫人に失礼なことをいったり、したりしたかも知れないということがありました。
M夫妻にはその後会う機会がなく、又それとなく遠ざかっていましたが心には残っていました。
先日、M夫人に札幌駅地下街でバッタリ会いました。汽車までの時間があったので「お茶でも」と喫茶店に行きました。しばらく雑談をしてましたが、私の冗談によく笑ってくれるし「昨日吉本さんも札幌にいたのが分かっていたら一緒に飲んだのにね」と言ってくれたりして、前のことを(なにかがあったとしてですが)気にしている様子もなくホッとし、胸のつかえがなくなりました。そして気分がよくなって、「面白い映画やっているので映画見て帰ろうかどうか迷っていたんですが、どうです一列車遅らせて映画見て帰りませんか」とM夫人に言いました。
そうすると、M夫人は即座に「吉本さん見ていきなさい。私帰るから!」
私は奥さんの顔を見ながら考えました。普通なら映画を見たくなくても ちょっと考えたふりをしてから「残念だけど私富良野で用事あるから……」と、それとなく断わるのではないだろうか。即座にビシッと「吉本さん見ていきなさい。私帰るから!」と言うことは……。「やはり顔には出していないけれども、あの時何かあってそのことを怒っているのだなあ」と気がつき、そしてどんなことがあったのか、不安がまた広がりました。家に帰り、「おれやっぱり変なことしたのかなあ」と我が息子大悟にオッパイを飲ましている妻に言いました。
「ただ、人の奥さんを映画に誘うのが非常識なだけよ」
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