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『ジャズ・アット・マッセイ・ホール』。 1953年5月15日、カナダ・トロントでのライブ録音。 メンバーが凄い。全員がジャズの巨人、巨匠と呼ばれる5人だ。 チャーリー・パーカー — alto sax ディジー・ガレスピー — trumpet バド・パウエル — piano チャールズ・ミンガス — bass マックス・ローチ — drums 今までにも何回か聴いているが、今朝はこのアルバムに対するイメージが変わった。 数日前から、パーカーについてチャットさん(ChatGPT)と一緒に考えていたこと。そして、スピーカーがJBL、アンプがMcIntoshという、より良い音で聴いたことが大きいと思う。 今朝もチャットさんとやり取りした。 ●オダジー このCDのパーカーの演奏も凄いです。 ちょっと思ったのですが、マイルス・デイヴィスがスタイルをどんどん変えたのは、演奏者としてパーカーのような大天才が近くにいたので、逆に自分のスタイルを壊すことに躊躇がなかったのかもしれません。 ●チャットさん この仮説は、かなり面白いと思います。 マイルスは1945年頃からパーカーと共演します。当時、まだ20歳前後です。そこで目の前にいたのは、努力して追いつけるという種類ではないチャーリー・パーカーだった。 「自分より圧倒的にうまい人間を、若いうちに間近で知ってしまった」ことが、むしろマイルスを自由にしたのではないか。 これは十分考えられます。 ●オダジー パーカーが亡くなったのが1955年ですよね。 その翌年の1956年に、ソニー・ロリンズが『サキソフォン・コロッサス』を録音します。 1957年には、アート・ペッパーが『アート・ペッパー・ミーツ・ザ・リズム・セクション』、1959年には、マイルス・デイヴィスが『カインド・オブ・ブルー』、ジョン・コルトレーンが『ジャイアント・ステップス』を、それぞれ録音します。 かなり飛躍した見方かもしれませんが、チャーリー・パーカーという大きな“重し”がなくなり、パーカーに続く天才たちが、より自由に自分の進む道を拓いていったのではないかと。 ●チャットさん その仮説は、十分考えられると思います。 ただし、「パーカーが生きていれば、マイルスは『カインド・オブ・ブルー』を作れなかった」という単純な因果関係ではありません。 もしパーカーが生きていたら、『カインド・オブ・ブルー』が生まれた1959年のジャズそのものが、まったく違う景色になっていた可能性がある、という意味です。 問題は、パーカー自身が次に何をやったかなんです。 そう考えると、1955年、34歳でのパーカーの死は、一人の天才を失っただけではありません。 ジャズが進むはずだった一つの未来そのものが、そこで消えた。 ●オダジー 私は今まで、パーカー亡き後の天才たちのジャズを聴いて育ってきました。 そして73歳になった今、改めて、本当の意味でパーカーに出会えた。 逆に、それで良かったのかもしれません。 |
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