■ 井上陽水「もどり道」 by富良野のオダジー 2009年06月22日(月)

  41,782 byte昨日の朝だが、何かの拍子で、陽水を聞きたくなった。陽水は、青春そのもので、私にとっては今でも特別な思いがある。
ついでに言うと、小説家だと、太宰治。今年生誕100年だそうで、ちょこちょこ名前を目にする。
「人間失格」とか「晩年」、「斜陽」などをまた読み返したい気がするが、流石に読書は時間がかかるので難しい。
その点、歌はいい。聞けば良いからだ。
このレコード「もどり道」は、1973年(昭和48年)の発売で、私がちょうど二十歳の時だ。
もしかしたら、一番多く聞いたレコードかもしれない。どういう訳か、あの当時のほかに持っていたレコードはなくなったのに、これだけは、ずっと手もとにある。
私は“ナツメロ”として、陽水を聞くことはない。聞くときは、いつも今の気持ちで聞く。
A面を一緒に歌いながら(店の開店前)、夏まつり、いつのまにか少女は、紙飛行機、あかずの踏切り、たいくつと続いた。
このレコードはライブ録音で、曲と曲の間に陽水の“語り”が入っている。
次の「人生が二度あれば」が入る前に、自分の父親のことをとつとつと、しんみり話す。
それを聞きながら、今の陽水がこれを聞いたら、恥ずかしい思い、若気のいたりのような感じなんだろうか、などと大きなお世話なことを考えたりして、聞いていた。
歌に入って、今まで何回も、何十回も聞いた歌をいつものように聞いていたのだが、不意に涙ぐんだ感じになってしまった。
もちろん、初めてである。
理由は、すぐ分かった。
今までは、陽水側(子供)の立場で、親に対する歌として聞いていたのだ。昨日に限って、親側の立場で聞いてしまったのだ。
「顔のシワはふえて ゆくばかり 仕事に追われ」とか「子供を育て 家族の為に 年老いた母」とかに、反応したのだ。
私もあと十年足らずで、子供たちにこんな感じで思われるのだろうな、と浮かんだことに反応したのだ。
陽水は人生が二度あればなんて、本当は思っていない。人生は一度しかないから、尊いし、いとおしいのだと思っているはずだ。
そう、私が勝手に理解している気持ちは、今も変わらない。
 


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