昭和44年7月、富良野市民憲章が制定された。その中に「私達は北海道の中心標の立つ富良野市民です」の一文がある。

物にはすべて中心があり、人体の中心はへそ。だから、北海道の中心標は、いわば北海道のへそである。これを郷土芸能に具象して将来の観光や商業の発展に結びつける方法はないものか...。誰いうともなしに、その発想は波紋を広げていくことになる。つまり、「北海へそ祭り」のすべては、この市民憲章から始まったのだ。

そして、この祭りの誕生と発展の歴史を語るときに欠かせないのが操上秀峰さん、森田藤八さん、横尾栄治朗さんらの三氏の存在である。(三氏はすでに故人)この三人の献身的な努力と情熱が注がれ、北海へそ祭りの原形が作られていった。その意気込みは「ヘソキチ」「ヘソ三羽ガラス」と呼称されたほどであった。

祭りの主役は、何といっても珍奇絶妙な図腹踊り。これは、「祭りにはユニークさが必要だ。へそを活かした踊りをやろう」と、すずらん商店街の皆さんが考え出したもの。しかし、初回は踊り手を集めるのが一苦労で、嫌がる若者たちをなだめたり、すかしたりして、やっと11人を踊らせたというエピソードが伝えられている。

北海へそ祭りが現在のような隆盛を見せるまでには、さらに多くの人々の協力と汗が必要だったのはいうまでもないが、かつての「ヘソ三羽ガラス」の初期の苦労があったからこそ、二日間で、約4,000人の踊り手と7万人の観光客で賑わう、夏の北海道を代表する祭りとして広く知られるようになったのである。

珍奇絶妙、ユニーク、あふれるユーモア...など、数々の形容詞で称賛される北海へそ踊りだが、実は開拓時代からの崇高な精神が織り込まれているのだ。 昼なお暗い原始林に挑むとき、臍下丹田(せいかたんでん)に力を入れて、一本一本の大樹を切り倒し、耕していかなければならなかった。その逞しい開拓精神を讃え創案されたもので、現在は(1)正調北海へそ踊り(2)パレード用へそ踊り(3)図腹踊り(4)舞台踊りの四種類があり、いまや富良野市の伝統文化として定着し、息づいている。

北海へそ祭りには数々の「こだわり」がある。開催日もそのひとつ。道内各地にも、さまざまな新しいイベントや祭りが生まれているが、大抵の開催日は土曜、日曜開催という具合に流動的なのだ。へそ祭りも当初は8月15日開催であったが、第3回以降は7月28日・29日と決めている。それは「中心標」「へそ」「踊り」という、この祭りの文化的特性、風土的な特性、そして、れっきとした へそ神社(北真神社)の例大祭としての自負と誇りにほかならない。また、例年7月のこの二日間は日中多少小雨が降ったことはあるが、奇妙に踊り大会の時間帯には、雨にあたったことがない。だから、人を集めるには土、日曜開催を、という声もあるが、変更する気はさらさら無いのである。 へそにこだわったり、へそにちなんだものも数多い。へそマラソン大会、へそ公園(中心標公園)、へそ標(北海道中央経緯度観測標)、へそ民話、へそスイカ、へそ歓楽街、へそ十戒、へそ火脚、 へそみこし、へそ時計などのほか「へそ」の名の付いた銘菓の種類も数多い。


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