2007年1月11日 ワイワイ日記
昨年の十一月から、インターネット上で「オダジーのワイワイ日記」を始めた。最近、流行(はや)りの「ブログ」のようなものだ。ブログというのは、個人や数人のグループで運営され、日々更新される日記的なウェブサイトの総称。私のやっている「ワイワイ日記」は、基本的には一日に写真が一枚で、その写真に合わせて文章を書いて公開している。
最初は、毎日書く話題なんてないし、書く時間だってないのにと心配していたが、やってみたら結構ハマってしまった。約二カ月の間に五十回近く書いたから、ほぼ毎日書いていることになる。内容は、「今日、富良野に初雪が降りました」とか「今日の十勝岳連峰はきれいです」といった身近な富良野の情報から、好きなジャズの話、私のショップの紹介などさまざま。気の向くまま、軽いノリでつづっている。
私が「ワイワイ日記」を始めた理由は、富良野と富良野のファンをつなぐ何かのパイプ役になりたいと勝手に思ったからだ。この日記を見たことが富良野に来るきっかけになったり、見た人が富良野に親しみを持ってくれたらいいなあと、ひそかに期待している。
残念ながら、まだ広くは知られていないし、確実に毎日チェックしてくれる人は身内や知人ぐらいだが、それでも見てくれる人がいることはうれしい。さらに言えば、たとえ誰も見てくれなかったとしても、自分にとっては決してマイナスではないと思う。毎日、書くための「ネタ」を探すことで、あらゆる分野の話題に自分のアンテナが向くようになったからだ。そういう意味では、日記の一番の読者は自分自身なのかもしれない。
さて、明日は日記に何を書こうかな。
2007年2月26日 フォーク合戦
先日、富良野のコミュニティーFM「ラジオふらの」で団塊の世代をテーマに企画した特別番組「今日はまるごとD’s Day」に出演した。私の出番は番組の第三部のフォークソング合戦。ラジオふらのでラジオ講座の講師を務めてくれている放送作家の石井彰さんと私がフォークで「対決」したのだった。
互いに十五人のフォーク歌手を選び、それぞれの歌手の「これぞ」と思う一曲を選ぶ。そして、選んだ理由やその曲に対する熱い思いを話すという内容。スタジオ内の審査員とラジオのリスナーが五人の歌手ごとに良かったほうに投票し、その合計ポイントで勝敗を決めるのだが、なんと!四時間にもわたるとてもハードな放送になった。
石井さんは「日曜喫茶室」や「永六輔の誰かとどこかで」といったラジオ番組の構成や演出で知られている。言ってみれば、ラジオのプロ中のプロ。そんな方に対してシロウトの私が不遜(ふそん)にも戦いを挑んでしまったわけだが、延々と続く対決をスタジオの中で聞いている審査員もさぞや大変だっただろうなと思う。
フォークソングは、私にとっては青春そのものだ。岡林信康や吉田拓郎に出会って初めて自分の「生き方」を考え、「思想」や「哲学」を学んだ。それから三十年以上もたったが、番組の中であのころの曲をじっくり聞き直し、当時の空気をいっぱい吸い込んでいるうちに、また新鮮な気持ちになった。フォークソングよ、ありがとう!
え? 対決の勝敗ですか? どういうわけか、私が勝っちゃいました。石井先生、どうもすみません。
2007年4月16日 親の重み
ある日、近所に住む母から「おまえ、新聞に何か書いているの?」とたずねられた。七十八歳の母は、旭川の知人から、この欄のことを聞いたらしい。私は「ああ、もう四、五年前から書いてるよ」と答えた。
その知人は最近、私のエッセーが載るたびに、気を利かせて新聞を切り抜いて母に渡してくれている。母にしてみれば、口にはしないが、息子の話を人から聞くのは何となくうれしいのだろう。切り抜きを大切そうに見せてくれた。
もう二十年以上もたつが、現在の会社を始めたころ、お金がちょっと足りなくなったことがあった。今ではのん気に振り返って語れる話だが、当時、まだ若かった私は青くなった。うまく行かずに困って、最後の最後に母に相談した。いつものように「何をやっているんだ!」と怒られ、説教されると覚悟していた。しかし、母は何も言わずにお金を貸してくれた。あの時に感じた「母親のすごみ」というようなものを私は忘れられない。
両親の世代の人たちは偉いなと思う。戦時中や終戦後に本当に苦労しているから、優しくも厳しくもなれるし、年をとっても働き続ける。建具屋をしていた父は今年で八十三歳になるが、いまだに“現役”でものづくりをしている。建具屋の仕事はしていないが、頼めばいすやテーブル、額縁などを作ってくれる。子供のために、さりげなく力を貸してくれる。
私自身も「親」として子供たちに何かを与えることができているだろうか。そう自問しながら、あらためて今、親の重みを感じている。
2007年6月4日 さくらんぼ
三年前の夏、東京の知人から突然、携帯電話がかかってきた。
「いやー、知り合いと話していたら、富良野の話が出てきてね」。知人は、ちょっと興奮気味に話し始めた。
知り合いというのは山形県でさくらんぼの苗などを育てている会社の専務で、「北の国から」の大ファンだという彼が近々、富良野に行くからよろしくということだった。「若いけど、いいヤツだから面倒見てよ」と言って電話は切れた。
それから程なくして、会社の慰安旅行で彼は富良野に来た。彼の会社はさくらんぼの高級品種の「佐藤錦」を命名・普及したことで知られている。彼は私に「富良野の広大な大地に、ぜひ、さくらんぼを植えてみたい」と熱っぽく語った。私も「富良野にさくらんぼ」というのはイメージとしていいなと直感的に感じたが、その時は、簡単に実現できるとは思わなかった。
ところが、なんと! この五月末に、富良野の麓郷の丘に彼が本当にさくらんぼの苗木を植えたのだ。彼の熱意が功を奏して会社が麓郷に十ヘクタールほどの土地を買い、さくらんぼ三百本とブルーベリー、桃などの苗木を植えた。風も強いし、山形生まれの苗木が氷点下二○度を超す厳しい富良野の冬に耐えられるのかどうか、心配もある。それでも、夢の実現に向かって一歩を踏み出した彼はえらいなと思う。
さくらんぼを植えた場所からは、前富良野岳や芦別岳が望め、景色もすばらしい。山形のさくらんぼが富良野でも根を下ろせるように、私も非力ながら彼の取り組みを応援していきたい。