2003年9月25日 夢広がる「世界の工房」
メディカルイラストレーターのトモさんが富良野を訪れた。トモさんは「日本でこの仕事は正当に評価されないし、後輩にアメリカへの道もつけてやりたい」と、十数年前にエアーブラシ一本持って、単身ニューヨークに渡った。
頑張ったかいがあり、「サイエンティフィック・アメリカン」や米国版「ニュートン」の表紙を任され、細胞や動植物、宇宙などを描いている。
そのトモさんが、富良野で夢を膨らませいる。彼のアイデアは、宿泊施設を備えた工房を市内に作り、ウッドクラフト、彫金、ペインティング、陶芸など、日本とアメリカのアーティストたちが作品を制作する拠点作りだ。「僕は二次元アートの人間だから、三次元の人たちとネットワークしたい」という。
出来上がった作品は富良野を出発点に展示・販売するが、単なる貸しアトリエではない。参加アーティストをネットワーク化し、日本やアメリカのマーケットで仕事を受注する、アートハウスの役割も考えている。すでに、ニューヨークで協力してくれるアーティストも何人かいるそうだ。
どこまで実現出来るか分からないが、富良野が面白くなるのは 。私も仲間を誘って協力しようと思っている。
2003年12月4日 幻の味噌ラーメン
叔父が亡くなった。昔からかわいがってもらいながら、病院に見舞いにも行っていなかった。
仕事に追われ、またも、そして最後の不義理をしてしまった。
後悔を胸に、その日の夜、叔父宅に向かった。安らかな顔で眠っている叔父に謝り、冥福を祈った。
叔父宅には、いとこ、親類の人たちが集まっていた。自然と昔話になり、私が「おばさんの作ったしょうゆラーメンはおいしかったなぁ」と言ったら、「それなら味噌(みそ)ラーメンの方がもっとうまかった」と、みんなが口々に言う。不覚にも、私はその味を知らなかった。以前、叔父が食料品店を開き、叔母が食堂をやっていた。
叔母に聞くと、三十数年前、店に突然やってきた、味噌ラーメン作りのプロという人に教えてもらったという。昔はそういうプロが町々を回っていたらしい。見も知らぬ同士のつながりが、「味」だけで成り立っている情景にロマンを感じた。
おいしいものを人から人に伝える物語。このままでは、幻の味噌ラーメンになってしまう。私は叔母に、いつかぜひ作り方を教えてほしいと頼んだ。叔母の味噌ラーメンの味を引き継ぐことが、叔父の供養にもなるような気がした。