■ 富良野が好き フラニスト物語」続編 byオダジー 2006年12月22日(金)

  51,690 byteワイワイ日記を書くのに、以前書いて参考になりそうなものはないかと、古いデータを調べていたら、1994年8月に書いた文章が出てきた。なんとなく、憶えているような、いないような・・・。
十年以上前、私が40歳そこそこの時のものだ。ちょっと、生意気な感じもする文章だけれど、紹介しようと思います。どこにも、発表してないものです。

「富良野が好き フラニスト物語」という本を1992年に出版した。出版したと言っても、ちゃんとした出版社から出版したわけでは、勿論ない。
 東京でそっち関係の仕事をしている知人に原稿のコピーを送ったら、その人が関わっている、ある大手の新聞社のある人に見せてくれた。
「これなら、出版になるかもしれない」と言われそうで、担当の後輩に検討させると約束してくれた、そうだ。
 しばらくして、新聞社のその人に会うべく、ぼくは、その大きな本社ビルへと向った。その人は、いかにも新聞社の人、という感じの人で、ビル内にある飲み屋さんで、いきなりご馳走してくれた。特製の豆腐が美味しいと言われたので、冷奴を食べた。
 原稿のことや富良野のことを色々誉められて、すっかりぼくはその気になったかというと、そうでもなかった。
「もしかしたら、有名になれるかもしれない」と心の隅で興奮する、この手の話には、今までにも、随分痛い目をみてきた。
 その話は、そこまでだった。
 今ごろ、あの原稿のコピーはどこにあるのだろうか。結局、自分たちで出版した。
 さて、「富良野が好き フラニスト物語」の続編のことである。
 続編というからには、普通、前作の評判が良かったということが前提だと思うが、残念ながら、自分には良かったか悪かったかは分らない。
 そりゃ、「小田島、あの本、結構おもしろかったよ」と言われたことは一度や二度ではない。いや、先にも書いた通り、プロと呼ばれる新聞社の人からもある程度の評価をされたのだ。
 この場合、本の売上は評価の参考にはならない。何故なら、ほとんど流通と言われるものに乗っていないからだ。限られた書店の限られたスペース、広告費ゼロ。そして、日本では、こういう本を買うシステムや習慣がない。これでは、どんな本にせよ、売れたら奇跡だ。
 この国は、中身よりむしろ売ろうとする「仕掛」と「お金」だけがモノを言う。売ろうとする側のことは、ある程度あきらめもつくが、情けないことに、買う側もそのシステムに何の疑問も持たないで、むしろ助長している。ここはきちっと断定する、助長している。
 この件に関しては、日本という国の本質的な問題にまで行かざるを得ないので、ここではこれ以上言及しないが、この国が何でこんな国になってしまったのかを考察したり、罵倒したりするのも、本書の目的の一つでもあるので、そのつもりで。
 話は、続編のことである。
 つまり、ぼくは、ただ単に続編を出したいだけなのよ。
「富良野が好き フラニスト物語」には、自分としては大満足している。
 いつの日にか富良野の、いや日本のまちづくりの「バイブル」として、広く読まれ、親しまれるようになればと思う。「調子にのるなっ!」っていう声が聞こえてくるが、万に一つ、億に一つ、もないだろうが、もし、そうなったら、ぼくは日本を見直す。
 ここ十年、ぼくらの国は浮かれに浮かれていた。バブルという時代。「そんな時代もあぁったねと」、と歌ってしまえばすむ話かもしれないが、あの空前の「金余り」時代の余った金の使い方の情けなかったことは、誰がなんと言い訳しようが、情けない。
 余った金で買ったものと言えば、土地と株。それも、国内ならまだしも、外国のまで。
 世界中から顰蹙(ひんしゅく)をかって、笑われて、残ったものは、「不況」。今度は、不況、不況の大合唱。
 みんなで真面目に考えようよ。さもないと、本当に、この国は目茶苦茶になっちゃうよ。ぼくには子供が3人いるし、実は、この国に完全に絶望しているわけではないのだ。というのは、この国の全体を見ると、とんでもなくヒドイけれど、個人として、一人の人間として会って話すと、素晴らしい人がけっこういるからだ。
 特別、ぼくだけが素晴らしい人と出会えるチャンスに恵まれているとは思えないので、そう感じている人は多いはずだ。
 ぼくが素晴らしい人たちと思っている人たちと会って話をしたり、やっている仕事、主にアートだが、を見ると、「色々問題はあるけれど、この国も捨てたもんじゃない」と思えてくる。
 そして、勇気がわいてくる。
 ようやく、言いたいことが、見えてきた。
 つまり、国家とか、日本人とか、地球とか、政治とか、そういう大上段に振りかざすような話も大切かもしれないが、ぼくは、ぼくの等身大で出来ることをコツコツやって、素晴らしい人たちに理解してもらい、そして協力してもらい、小さいながらもイイ仕事をする。それを見た人たち、特に若い人たちが、「この国も、捨てたもんじゃない」と感じてくれて、希望を持って、頑張ろうとする。その人たちをまた、ぼくらが応援する。「この国も、捨てたもんじゃない」と思える人が一人でも多くなることが、ぼくらが住んでいる、嫌いだけど好きな「日本」という国が良い国になるための唯一残された道なのだ。と思う。
 続編では、今ぼくらがやっていること、やろうとしていることを全部話し、その意味や意義を出来る限り、嘘をつかないで分り易く説明するつもりだ。
 幸い、数多くの協力者がいるのでその人たちにも、場面場面でいい話しをしてもらおうと企んでいるので、期待されたし、だ。
 とにかく、この本を読んで、「この国も、捨てたもんじゃない」と思えたら、ぼくらと一緒に何かをやろうよ。どんな小さなことだってイイじゃないか。生きるってことは、実は、小さなことなんだよ。
 では、用意はいいかな?

以上が「序文」のような感じで、以下に、私がやってきたこと、やっていること、これからやりたいことなどを書いていこうと思ったようだ。この後、CD&写真集「夢のとき―Furano―」のことを書いて、止まっている。それから、12年以上経ってしまった。
「続編」は、今後このワイワイ日記で続けたいと思います。忘れた頃に、少しずつアップされると思いますが、よろしくお願いします。
 


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