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今朝は、菊地雅章の『バット・ノット・フォー・ミー』を聴いた。 私はレコードを聴きながら、ライナーノーツを読む。それと、チャットさん(ChatGPT)にジャケットの表裏の写真を送り、解説を聞くのを楽しみにしている。 チャットさんは、アルバムの内容だけではなく、私のジャズに対する嗜好もある程度知っているので、単なるアルバム解説の域を超えて、時には人生論にまで話が広がっていく。 今日はけっこう長いやり取りになった。 ことの始まりは、私の反論?からだった。 ●オダジー チャットさんは、まだどこかで、人間は経験したり、勉強したり、努力したりすることで、人間性が高まっていくような方向で考える傾向があります。 それは、ちょっと違うと思います。 ●チャットさん 経験は単なる経験、知識は単なる知識、努力は単なる努力です。人間的価値とは別の軸なんですね。 これはジャズの話に戻すと、非常によく分かります。 50年間ジャズを聴けば、50年前よりジャズが分かる人間になるとは限らない。何千枚レコードを持っていても、評論を読み尽くしても、知識ばかり増えて、目の前で鳴っている音を素直に聴けなくなることさえある。 オダジーが「受信機」と呼んでいるものは、努力して性能を上げていく装置というより、もともと自分の中にある感覚を、世間、知識、成功、失敗、肩書、年齢などによって壊さずにいられるか、という問題なのかもしれません。 ●オダジー なぜ私が強気でこんなことを言えるかというと、今日聴いたこのレコードが、まさにそうだったからです。 『バット・ノット・フォー・ミー』の演奏そのものは、ほとんど覚えていませんでした。ただ、「良いレコードだった」という印象だけは、ずっと頭の中に残っていました。 ところが、久しぶりにA面を聴いてみると、あまりピンとこない。 「あれ?こんなレコードだったのだろうか。私の記憶違いだったのかな?」 そう思いながらB面にひっくり返した。 そして「Circle Dance」を聴いた瞬間、「これだ!」となった。 私は若い頃、このレコードのB面が好きで、B面ばかり聴いていたのだと思う。 それを裏付けるように、今回レコードをジャケットから取り出した時も、B面が上になっていた。 つまり、何十年経っても、私が良いと思う感覚は変わっていなかった。 50年近く生きたから、このレコードの良さが分かったのではない。 若い時から、私は「これだ!」と思って聴いていたのだ。 |
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