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オフィスFURANO誕生
昭和58年7月1日。この日が「オフィスFURANO」の始まりであり、「ぼく」の始まりだった。誰でも決して忘れられない日とか大切な記念日があると思うけれど、ぼくにとってはこの日が一生で一番意味のある日だ。結婚記念日は、子供の誕生日は、どうなるのよ!と、うちの奴に怒られそうだが、ぼくのスタートは紛れもなくこの日で、この日がなければ今の自分はなかったのだから、その延長線上にある結婚とか家族、妻や子供のことはNEXTにならざるを得ない。仕事があっての人生なのだ。お金もない、信用もない、実績もない。なんにもないのに、会社だけを作ってしまった。
それまでのぼくは住宅建具の製作や取り付けをする「富良野建具工業株式会社」という親父がやっている会社にいた。株式会社と言っても、従業員数名の町工場に過ぎない小さなものだ。跡を継いで経営するほどの規模でもないし、かといって親父のように職人としてやっていくにはぼくは不器用すぎたし、もう遅すぎた。第一仕事がちっとも面白くなかった。親父には悪かったけどオフィスFURANO設立と同時に辞めた。東京からUターンで戻ってきて四年が経っていた。
会社設立のキッカケは、間違いなく倉本先生だった。先生のテレビドラマ「北の国から」だった。昭和56年10月から57年3月までフジテレビ系で放映されたこのドラマは、圧倒的な支持を得て大評判になった。実は「北の国から」にはぼくたちも関わっていた。田中邦衛さんや竹下景子さんを始めとする役者さんにこっちの方言や言い回しを教えたり、エキストラになったり、ロケ地にテントを建てたり、差入れしたり。特に仲世古さんと茶畑さんは、ロケ地が出身の麓郷地区(富良野駅から約20km)中心だったこともあり、公私ともども多方面にわたって手伝ったと思う。二人は先生とは富良野の中で一番親しい間柄にあり、先生が富良野に住むようになった昭和49年からの付き合いである。ぼくのことで言えば、先生を直接知っているのではなく茶畑さんに呼び出されて、その他一同でくっついていた。それはそれは楽しかった。先生も含めて、有名人や芸能人を身近に見るなんて生まれて初めてだったし、なんかこう自分が偉くなった気さえした。
放映後も倉本先生に関係したことが数多くあった。「北の国から」がテレビ大賞を授賞したのを祝って開かれた祝賀パーティでの劇団「ラ・ノンブリ」公演、先生がサンタクロース役になってみんなの家にプレゼントを贈るクリスマス。その頃の茶畑さんはすごく元気だった。年がちょうど今のぼくと同じくらいなのだから、若かったこともある。その度にぼくは呼ばれていた。もちろんフロム・ノースランド・ウィズ・ラブ誌もその流れの中で発刊されたものだ。「北の国から」がなかったらこのFNWL誌も生まれなかったはずた。つまり、「北の国から」がキッカケでなんだかんだやっているうちに、ぼくはすっかり今までとはまったく違う世界に入ってしまったのだ。心はもはや建具屋になかった。
そんなとき、茶畑さんと吉本さんに新しい会社を作らないかと言われた。これからの富良野は大勢の観光客が来る。実際に今も、信じられないくらいの人がロケに使われた「五郎の丸太小屋」を訪れている。その人達に富良野の良さや色々な情報を教えたり、質の高い富良野のオリジナル商品を作れば必ず商売になる。そしてそのことが「街づくり」にもきっとつながる。ぼくらも協力は惜しまないと。
会社を新設する話は以前からも集まればしていた。ぼくが建具屋を辞めたいと思っているのも二人とも知っていた。二人には何でも相談していた。あの頃、茶畑さんと吉本さんに対するぼくの信頼感はすごかった。とくに茶畑さんに対しては宗教的ですらあった。狂信。その二人が力になってくれるというのだから心強い。ぼくはあっけなく決心した。人生のターニングポイントだった。
普通、仕事を辞めるということは大変なことで、ましてや先の分からない新会社を設立するということは、とんでもないことだと思う。しかし、ぼくは重大な事柄であればあるほど、今までも、軽率に思われるくらい簡単に決めてきた。楽天家と言うかもしれないが、それは違う。人生には選択しなければいけない、避けては通れない分岐点が何度かあると思う。そしてそれはどちらを選んでも、後悔がつきまとうという種類のものだ。何故なら、ほとんどの場合どの道も遜色がないからだ。はっきりした違いのある分岐点なんてないのだ。極端に言えば、どっちだって良いのだ。だからぼくは「カン」とか「クセ」とか「ナリユキ」とか「ムード」とかで簡単に決める。どんなに考えたって、どんなに相談したって、どんなに慎重にしたって、決めた事の"違う方"をやり直すことは出来ないのだから。
会社を始めて間もなく「小田島、冗談で人生を生きるなよ」とある人に真面目に忠告された。ぼくはカチンとくるより、みんなからはそんな風に見えるんだなあと、変に感慨深かったのを憶えている。自分の事を自分では客観的に判断出来ないものだ。それは「熱く」なっているからだと思う。物事をやろうとするということは、熱くなることだ。冷静に考えたら何も出来なくなる。ぼくは熱くなることにかけては自信がある。だから危なっかしくて、周りの人は見ていられない。「いいんだ、オレの人生はオレが生きる。なんか文句あっかー」なんて、少し意気がってやってきたのだ。もっとも"ノリ"はもっと軽いけど。 しかし、やっぱり半端じゃなかった。新しい会社を軌道に乗せることが、いやそれ以前に「日銭」を稼ぐことが、たった千円儲けることが、これほど辛いこと、難しいこととは思わなかった。ぼくは甘かった。「アマちゃん」だった。「アンコ」だった。
スタート時のオフィスFURANO
「ごあいさつ」
ふらのにも本格的な夏が待ちどうしい、きょうこのごろです。皆さまにおかれましては、御健勝のことと御拝察申し上げます。さて、郷土ふらのも、「北の国から」「ワールドカップスキー」など国内はもとより国際的にも名をひろめ、当地をおとずれる人びとも昨年、夏は20万人近くにのぼり、本年も多くの観光客がみこまれております。
しかしながら、観光も見る観光から行動する滞在型観光にかわりつつある現在、ふらのにおいては民間による企画観光がたち遅れているように思われます。私共、若ものが集まり魅力ある町づくりをめざし、自由発想によりふらのの演出をこころみようと、オフィスふらのを開設しました。ふらの市民と当市をおとずれる皆さんへの総合的ふらのの案内と物産、文化などすべてのものをPRしたいと考えております。
新しいこころみにつき、とまどうことばかりでありますが、若さと、やる気だけがとりえですが、皆さま方のアイデアと御協力をお願い申し上げ御挨拶といたします。
この挨拶文は設立時、昭和58年7月に市役所をはじめ各方面に出した。おそらく茶畑さんが文章を考え、ガッチャン、ガッチャンと音がして、たまに活字が吹っ飛んでしまう「日本タイプライター」で茶畑さんが打ってくれたはずのものだ。いまでこそぼくはNECパソコン・ソフト一太郎を使って威張っているが、あの頃はタイプライターを触ったことなかった。活字を打っている茶畑さんを見て感動したのをはっきり憶えている。アカヌケタ人だなあと。その後茶畑さんからそのタイプライターを貰い、卓上の一行ワープロを経て、現在に至っている。もちろんこの原稿もNECのキーボードを叩いている。僅か数年のことだった。日本のテンポの早さは、こんな田舎の富良野にまで確実に影響を与えているのだ。
少し横道にそれるけれど、同じようにファックスもすごい。これもここ数年ですさまじい勢いで普及した。うちの会社にとっては、いやおそらく地方の会社すべてにとってファックスほどありがたいものはないと思う。なんだかんだ言っても会社を進めたり、広げていくと「東京」に突き当たる。常に東京を頭に置いていなければ商売にならないし、遅れてしまう。東京は今も昔も日本の中心だ。ファックスは東京との距離をかなり縮めてくれたのだ。ついでに言うと富良野から「旭川空港」まで車なら一時間足らずで行けて、飛行時間が約一時間半。自分の家を出てから銀座の人に会うまで、待ち時間を入れても四時間はかからない。ファックスと飛行機は地方の意味を変えようとしている。
「地方の時代」が来ると言われているのもこのこととは無関係ではないと思うが、一向にそうならないのは、都会に対しての地方という対立の構図が間違っていたからだと思う。田舎の良さと都会の良さを、田舎側からうまくブレンドさせることが出来たら、地方の時代が来るかもしれない。田舎の自然環境と都会の情報環境、田舎の生活環境と都会のワーキング環境、これらをどうプロデュースするのか。大きく言うと今後の日本の「テーマ」だと思う。実は、このテーマがオフィスFURANOのテーマでもあるのだが、詳しくは後に譲る。
読み返してもこの挨拶文に書いてある会社のコンセプトは変わっていないと思う。当初進めようとしていた内容とはかなり違ってきているが、それは会社が成長してきた証でもある。スタートした時は吉本さんの会社「中央ハイヤー」のすぐ隣にある、吉本さんが大家の店舗を借りた。壁は目立った方が良いと真っ黄色に塗りかえ、イエローハウスの愛称で呼んでいた。1Fは「ショップ・セカンドハンド」というお店、2Fはコミュニティホールと事務所。セカンドハンドはTシャツやトレーナーなどのオリジナル商品と仕入れたおみやげ品を販売するスペースと「レンタルBOX」のスペースがあった。
 レンタルBOXは茶畑さんのアイデアだったと思うが、月々5千円か一万円で場所を貸し、借りた人はそこに商品を並べたり、PRのために商品見本を飾るというシステムだった。お菓子店の新谷さん、くり屋さん、七宝焼きをしている向さん、、木彫・手芸のグループの前多さん、篠原さん、井口さん、高崎さん、レコード屋の大道さん、パーラータケダのお姉ちゃん、茶畑さんの会社「陽電」、日里さんの日里きもの店などがワンBOX協力してくれた。この場を借りてお礼申し上げます。ありがとうございました。2Fのコミュニティホールは旅行者に富良野をインフォメーションするスペースや小さなイベント会場として機能させるつもりだった。店舗部門とは別に企画部門はアウトドアツアーの実施、オリジナル商品の開発などを考えていた。
オフィスFURANOの資金とスタッフ
ぼくは自慢ではないが会社を始めた時、一銭もなかった。建具屋の給料では生活していくのがやっとで貯金どころではなかったし、性格も貯金にむいていなかった。親が資金を出してくれたら言うことなかったのだけれど、親にしたって五十歩百歩だった。当然といえば当然だが、銀行から300万円借りた。茶畑さんと吉本さんは初めから事情を知っていたので、快く保証人になってくれた。危篤な人達と思わないで下さい。一応はぼくを信用していたのだ。と思う?今考えるとゾッとする。何の当てもないのに300万もの大金を借りて、それも大切な先輩を保証人にして。しかし、その時は無我夢中というか、熱くなっているというか、いいかげんというか、とにかく事の重大さを実感しないまま突き進んでいたと思う。ただ、酔っぱらったら、オレは3000万円までは借りれるんだ。何故かというとオレが死ねば3000万保険金が入ってくるからだ。つまり、死ぬ気で頑張れば、駄目だったら「死ね」ば、誰にも迷惑をかけないですむのだ。なんて言っていたことを思い出すとやっぱり、かなりプレッシャーはかかっていたのだろう。当り前か。
社員ももちろんぼく一人だった。正に、社長兼小使いを地で行っていた。もっとも直に妹のまり子が見るに見かねて手伝ってくれるようになり、一人ではなくなった。実はこのまり子が会社の主力になり今日の体制を支えているのだが、この時は見るに見かねてなのである。次に鬼塚という九州の男が転がり込んで来た。この男は「北の国から」を見て、自分もログハウスを建てたいと一念発起して、九州からはるばるやってきたのだ。当てがあって富良野に来た訳ではなく、居ても立っても居られなくて来てしまったのだ。とりあえず、うちの会社に来ることになった。階段下の物置にベットを作り、そこで寝泊まりしていた。この時は色々な雑用を小遣い程度の賃金でやってもらった。
まり子もそうだが、鬼ちゃんには随分助けてもらった。始めてまだ右も左も解らない頃だったのでなおさらありがたかった。全然文句も言わず、言ったことは何でもやってくれた。お金のこともこちらから言わない限り黙っていた。あるかないか聞いて、はじめてない時は、ないと言った。3ヵ月位経った頃、たまたまログハウスを実際に建てながら勉強するログビルダーのスクールが、富良野から約15km離れたところにある上富良野で開校することになった。鬼ちゃんはそこに入った。そして、そこで身につけた技術を買われて倉本先生の「富良野塾」のスタッフになり、「棟梁」として塾のすべての建物に関わっている。縁とは異なものである。
何はともあれ、社長、まり子、鬼ちゃんの三人でスタートしたのだが、思うようにお金が入ってこなかった。レンタルBOX料を全部合わせたって数万円にしかならないし、おみやげ品だって、その頃はまだ観光客があまり街には来ていなくて、パッとしなかった。店にジッとしていたら会社がやっていけなくなるのは、火を見るより明かだった。何かをしなければならない。何かを。心配して店に寄ってくれる茶畑さんと吉本さんにも来る度に相談していた。資金の方も店舗の改装費や什器備品費、アウトドアツアーのためのテントをはじめとしたキャンプ用品の購入であらかた消えていた。会社をはじめてすぐ危機に陥った。しかし、まだ悲観的な感じはなかったと思う。何とかしなければならない、と気持ちだけは前を向いていたからだ。とにかく必死だった。そのうち一つ、二つとアイデアらしいものが生まれたり、これやってみないかと、茶畑さんと吉本さんが仕事を持ってきてくれたりで、どうやらこうやらではあるがオフィスFURANOは動き始めた。