[オフィスFURANO物語] no.2
動き始めたオフィスFURANO
〈富良野観光案内所〉
外部から最初にきた話で、うちの会社で富良野観光案内所を運営してくれないかというものだった。富良野には市の観光課や観光協会があって観光客の案内をしていたのだが、それは冬のスキーシーズンに合わせた機能しか持っていなかった。「北の国から」放映以来、夏にも観光客が訪れるようになったが、その受け入れ体制はまったくなかった。観光案内所設置は富良野にとって急務だったのだ。
月々決まった報酬も支払うと言う。ぼくは迷った。金額の問題もあったけれど、単純に面倒だと思った。今引き受けたら収入は多少安定するけれど、その仕事が増えた分だけ自分の動きが鈍くなり、結果としてマイナスになるのではないか。茶畑さんと吉本さんに相談したら、社長が判断することだと突っ張ねられた。そして、ぼくは断わった。
社長として初めての決断だった。
後になって吉本さんに自分だったら引き受けたと思うよと言われたが、ぼくは今でもあの時の判断は間違っていなかったと確信している。もしやっていたら、今のように忙しくなっ時、辞めるに辞めれなくて大変なお荷物になっていたと思う。後々まで続くものは余程慎重に考えないとあとで後悔する。特に力のないときは、どうしても目先の利益にとらわれがちになるので注意が必要だ。あくまでも将来の会社のあり方を念頭に置いて判断しなければ駄目だと思う。もちろんこの話の時、そこまでの意識はなかったと思うが。

〈映画の上映〉
茶畑さんが持ってきた仕事で、富良野から約20km離れたところに布礼別という小さな集落があるが、そこの神社のお祭りに映画を上映することになった。映画を上映するといったって、ぼくには何の知識もなかった。「どうにかせぇ!」これがいつもの茶畑さん流なのである。
まず、フィルムを手配しなくてはならない。調べたら札幌に専門の会社があることが解ったので、電話した。一番人気があるのは何かと尋ねたら、「寅さん」だと言われたので、そこにある最新作を借りることにした。次は映写機だ。どうにか使えそうなのが市の図書館にあった。適当な理由をつけて拝借した。何しろそんなもの、見たことも触ったこともないのだ。正直言って、あの時は茶畑さんを恨んだ。
当日、鬼ちゃんと二人で、吉本さんからただで貰った三菱のオンボロジープに乗って、情けない思いで布礼別の"玉葱倉庫"に向かった。上映場所は玉葱倉庫なのだ。スクリーンを取り付け、映写機をセットして、試写してみる。何とか写った。ほとんどが農家の人達なのだが、めいめいに座布団を持って集まってきた。百人以上はいたはずだ。心臓はドキドキ、足はガタガタ。鬼ちゃんと目を合わし、大きなため息をついた。
とにかく始まった。どうにかスムーズにスタートした。しかし、安心は出来ない。最大の難所はフィルムを替える時だ。素早く、手際よくやらなければならない。悲しいかなシロウトである。割と早く替えることは出来たが、微妙にピントがずれた。直したら良いのにと思うかも知れないが、直そうとして益々おかしくなったら取り返しがつかなくなると心配で、それが出来ない。正に、針のムシロであった。
終ったとき思わず、鬼ちゃんと握手した。お金を儲けるのはいかに大変か、骨身に感じながら、暗い道をオンボロジープで帰ったのであった。

〈ダイレクトメール配り〉
吉本さんが考えた仕事で、吉本さんの会社、中央ハイヤーがダイレクトメールをお得意さんに出すことになった。普段は郵便で送っているが、送り先が市街地だけで比較的密集していて配り易いことから、ぼくに切手の料金で配達を請け負わないかと言ってきた。切手代60円として、千軒配達して60,000円。その時は仕事を選り好みする余裕なんて全くなかった。千円、二千円の積み重ねしかないと思っていた。ぼくは引き受けた。 とは言うものの、いくらなんでも昼間は格好が悪い。まり子を拝み倒して朝早くから起きてもらい、新聞配達や牛乳配達の人達と一緒に配りまくった。ぼくが車を運転して、まり子が配る。おそらく、一週間くらいはやったと思う。本当にまり子には済まないことをしたと思っている。今でもまり子に、この仕事が一番辛かったと言われる。吉本さんには申し訳ないけれど、この仕事は情けなかった。
配り終ってから、吉本さんにお金を受取るために会社へ行った。送り先のお得意さんの中には引越したりして居なくなっている人も結構沢山いた。お金を数えている吉本さんに、その旨を告げたら、その分の料金を引かれた。
吉本さんは信用出来る!ほんと ッ!

〈イカダ下りのTシャツ〉
富良野では昭和52年から毎年、7月の下旬に「北海イカダ下り」が盛大に行われる。「危険と費用はテメエ持ち」を原則に、主催者なしで始まった。つまり、川を下りたい人が勝手に川を下る、というものだった。会社を始めたあの年は異常だと思うほどの盛り上がりをみせていた。そんな中でイカダ下りのTシャツを作ることになった。
デザインは茶畑さんがしてくれた。イカダが下っていく空知川をモチーフにイラストで描かれ、コースのレイアウト地図としても使えるものだった。富良野の人にはもちろんだが、富良野以外の知っている人にもハガキを送り、買って貰った。とくに佐野先生の娘さんの麻子さんは沢山買ってくれた。あれはありがたかった。誰だって人にものを頼むのはイヤだと思う。ましてこちらが頼めば断わりにくい人には。だけど、あの時は切羽詰まっていた。ぼくは頼んでしまった。申し訳なかった。ほとんど押し売りだった。
麻子さんは佐野先生が文化村に別荘を持っている関係で、富良野によく遊びに来ていて、ぼくは以前からFNWL誌に文章を書いてもらったりして親しくしていたのだ。
新聞記事としても載った。新聞にはFNWL誌発刊のときからちょこちょこ出ていた。初めて新聞に出た時のことは忘れない。FNWL誌が取材されたのだが、発刊の経緯や内容、コンセプトなどを聞かれ、写真まで撮られた。その朝刊が待ち遠しくて待ち遠しくて、普段はゆっくり起きるのにその時だけは早く起きた。うれし恥ずかしとはこのことだった。それ以降「クセ」になってしまい、何か企画するたびに新聞社に足を運んだ。富良野は北海道新聞社と北海タイムス社の二紙がほとんどを制していて、その上川版が地域に密着した情報を提供している。たまには全道版に出ることもあるが、上川版がぼくらのフィールドだった。
ある意味では、「街づくり」から生まれた会社の"特権"だったのかもしれない。冷静に考えれば「商売」の記事である。新聞という準公共のメディアに会社の「宣伝」が記事として"タダ"で載るのである。しかし、本当に感謝している。オフィスFURANOが曲がりなりにもここまでやってこれた要素の一つに、新聞社のご好意が大きくあるのだ。この時に北海タイムス社が載せてくれた記事を紹介します。

 見出し「Tシャツごと、イカダ下りを」富良野・セカンドハンド
【富良野】近くオープンする青年グループ経営の新会社『セカンドハンド』(市内日の出町一二)で、第八回北海イカダ下りの地図を印刷したTシャツ=写真=が発売される。早くも本州観光客が富良野地方を旅行の記念品として注文しており、前評判は上々。
市内を走る空知川で、七月二十三、二十四に行われる川下りの地図を作製した『オフィスFURANO』はTシャツの背に川下り地図をそっくり印刷、発足したばかりの『セカンドハンド』で発売する。
Tシャツは三百着限定で一着二千二百円。ブルーの線で描かれている地図には"大満喫旅10km"としてスタート地点からゴールまでのガイドと市内、市外の観光の紹介が…。


結局、作った300枚を完売した。商売として、最初の成功だったかもしれない。

〈千円イカダ(以下だ!)市〉
これも色々話しているうちに出たアイデアで、語呂が面白いからやってみようということになった。いつも、どうしてこうもぼく達はイイカゲンなんだろう。しかも、勝手にイカダ下りの協賛にしてしまい、新聞チラシまで出してしまったのだ。売るものなんてほとんどないのに。チラシがまた笑わせた。旧千円札のコピーがレイアウトされているのだが、なんと伊藤博文の顔がぼくの顔になっているのだ。会社を始めたばかりで、興奮状態になっていたのだろう。ワルノリ。
あの時は日里さんに助けてもらった。日里さんは顔が広く、知っている店に行ってくれて、倉庫に眠っている千円以下で売れそうな商品を掻き集めてくれたのだ。
もちろん、あんまり売れなかった。しかし、店の最初のキーポイントになった、リサイクルセール「中古品大集合市」の導火線の役目を果たしたのだった。

〈東急観光のTOPNEWS〉
ちょうどあの頃から雑誌社、新聞社、テレビ局、ラジオ局などが取材のため、大挙して富良野に入り始めたと思う。オフィスFURANOにも結構色々な人が訪ねてきたが、東急観光の「TOPNEWS」という小冊子はちょっと変わっていた。編集の人が富良野特集のページの編集をぼくに一切任せたいと言ってきた。FNWL誌の編集長も随分認められたものだ。もちろん喜んでお受けした。
その時書いたコピーが「富良野のことかい?まずは"北時計"の珈琲を飲むこと。」だった。ちょっと引用します。
"北の時計、ゆっくり時を刻む"という、倉本聰氏の言葉から『北時計』の名は付けられた。『北時計』にいると、何もしなくても時の流れるのを忘れることがある。他ではけっしてないことだ。不思議に心が落ち着くのだ。考え深くなるのだ。詩人になるのだ。おそらく、『北時計』のまわりのせいだろう。窓から外に目をやる。山が見える。花が見える、鳥が見える、光が見える、風が見える。「それだけじゃないわよ。丸太の木がそうさせるのよ。木ってほんとに、心がやすらぐのよねェ」と、今野さん。今野さんは『北時計』の硬く言えば責任者、軟らかく言えばママさんである。
『北時計』はインフォメーションセンターとして作られている。倉本聰氏がシナリオを書き、富良野を舞台としたTVドラマ「北の国から」放映以来、沢山の人が富良野に来た。その人達の案内が目的である。それで、富良野の人はもちろんだが、やはり、都会の旅行者が圧倒的に多く来る。
「こちらでは何んにもないことが、逆に都会ではあることになるのよ。東京から来た若い人なんか、とにかく、よく歩くわねェ。この前の冬なんか、マイナス20度もあるのに歩いてきて、まっ白になってるのよ。そして、うれしくて、うれしくて、しょうがないって感じで"八甲田山ゴッコ"なんて、言っちゃってるのよ」今野さんは何を話すときでもとてもやさしく、あったかい。「いろいろな人が来るよねェ。受験に失敗した子とか、家出してきた子とか。その子達とても素直に自分のことしゃべるのよ。ここに来ると、なんか、そうなるみたいねェ」
夏になると、『北時計』はフル回転。昨年知り合った若者が、また来るだろう。『北時計』は、一度だけでは終らないところだ。
他の紙面では、丸太小屋を守る会、日本夜味なべ協会などの会とともに、吉本さん、仲世古さん、宮川さん、茶畑さん、日里さんなど、いつものメンバーを紹介した。カラー全8ページのこの小冊子のうち6ページを費やした。正に、"ぼく"の富良野特集だった。FNWL誌もそうだし、後の「富良野マップ」もそうだけれど、ぼくが関わって富良野を紹介すると、どうしても人(フラニスト)が中心になる。富良野がもし、面白い街だとか、住んでみたい街だと言われているとしたら、それは自然環境もあるけれど、ぼくはフラニストたちが頑張っているからだと信じている。もちろん本書もその延長線上にあると思う。このスタンスは初めからずっと一貫している。この時の評判はどうだったか分からないが、この仕事で5万円頂いた。原稿料というものを生まれて初めて手にした。しかし、みんなには黙っていた。あの時の5万円は本当にありがたかった。
ついでだが、もう一度だけ原稿料を貰ったことがある。その危篤な雑誌は「ウッディライフ」誌。「ボクが読んだおすすめのウッディの本」というブックガイドの特集にぼくの文章が載ったのだ。この時もうれしかった。何か記念になるものと、その原稿料で買った「広辞苑」が今もデーンと本棚にある。残念ながらこれ以降どこの雑誌社からも音沙汰無し。寂しい限りだ。

〈中古品大集合市〉
これも吉本さんのアイデアだった。当時は事務所が隣同士ということもあって、吉本さんとは毎日顔を合わせていた。会うのが日課になっていた。会えば、何かいい商売はないか、いい儲け話はないかと真剣に話していた。仕事のことしか頭になかったと言っても過言ではなかったと思う。必死だったけれど、やっぱり面白かった。吉本さんはちょっとでも参考になると思った新聞や雑誌の記事を、必ず切り抜いてコピーし、ぼくにくれた。
「リサイクルショップ奮戦中」の新聞記事もいつものように渡された。読んでみると資金もいらないし、やれそうな気がした。今はかなり違うが、あの頃はリサイクルとかリフォームという言葉は新しい感じがしたし、トレンディな響きがあった。
早速、作戦会議が開かれた。吉本さん、茶畑さん、日里さん、まり子が集まった。鬼ちゃんは階段の下に住んでいたが、ログビルダースクールに通っていて、戦力からは外れていた。そして、まり子の旦那、ぼくの義弟になる高橋も参加した。
高橋は「ラグ」という喫茶店をやっていたが、合間を見ては手伝ってくれていた。デザインが得意で、チラシ、トレーナー、パッケージ、パンフレットなどのデザインから、店のインテリア、レイアウトまで、およそセンスの必要とするものはすべて高橋が担当していた。翌年、正式に会社に入ることになるのだが、高橋がいなければオフィスFURANOの方向は全然違ったものになっていたと思う。何故なら、デザインが出来ることを前提に、ぼくは仕事を組み立てていったからだ。
とにかく、動きは早かった。みんなの情報をもとに、ぼくと高橋は売る品物を回収し、まり子は高橋の書いたチラシを配って回った。
ポータブル石油ストーブ1,500円、ガス湯沸かし機2,000円、スライド機3,000円、スキー500円、座布団300円、ベット5,000円、布団乾燥機4,000円、コップ10円、文庫本20円、LPレコード1,000円。チラシに載せた"商品"の一覧だ。一番多かったのは引出物の食器とタオルで、変わったものでは仏壇に飾る灯篭などがあった。他に健康器具、イス、テーブル、スキーウエアー、カメラ、尺八、マージャンパイ、ステレオ、ゴルフクラブ、自転車、ありとあらゆるものがあった。思ったより沢山の品物が集まった。
そして、何より驚いたのは品物を売ってくれる人達がお金のためではなく、使ってもらえる喜びのために品物を出すことだった。こちらが支払う金額なんて微々たるものなのだ。この辺がリサイクルショップの醍醐味なのだろう。どこかで品物を売る方も、買う方も、そしてその仲介に立つ方も「物を大事にして、良いことをしている」という共同意識があるのだ。通常の商品売買とは根本的に違う気がした。
結果は大成功だった。最初の2、3日はお客さんが全然切れなかった。次から次に来る感じだった。売りたし、買いたしの電話も頻繁にかかってきた。一週間の予定を一ヵ月に延長した。この売上で一息ついたのだった。
この中古市には今も色々な思いがある。よくあんな面倒なことをやれたなぁとか、単純によく頑張ったなぁとか、品物を取りに行くのは情けなかったなぁとか。大げさに言えば、商売をやっていく上での厳しさや悲しみ、惨めさみたいなものを体で実感したのだと思う。あの時を思えば今は天国だ。ありがたくて、ありがたくて、申し訳ない。しかし、人間は忘れるのだ、今は今で、不満を言っている。しょうがないと言えばそれまでだが。
感慨深いのにはもう一つの理由がある。それは、この中古市にぼくの唯一の大切な宝物だったジャズのレコードを出して、売ってしまったからだ。一時期、ジャズだけが人生だった。働いたお金のほとんどをレコードに費やし、何年もかけてコツコツ集めたものだ。「青春」だった。そのレコードを売ってしまうということは、青春を売ることだった。商売とはそんな甘いものを寄せ付けないところで成り立っているのだ。
ぼくはこの時青春に別れを告げ、立派な商人になることを決心したのだった。ちょっとオーバーか。
最後に、これからリサイクルショップをやろうと思っている人に、"先輩"として一言アドバイスをすると、売る品物は絶対に委託(売れた分だけ払う)にはしないこと。全部買い上げること。普通の仕入れ商品と同じように売れそうもない物は預からないで断わること。そうしないと終ったあとの整理がものすごく大変だし、この商売のいいところは後に尾を引かないことだから、その利点を最大限生かすためには買い上げて残ったら捨ててでもスッキリさせ、またやるのなら心機一転新たな気持ちでスタートすること。これがリサイクルショップの基本だ。みんなもドンドンやってほしい。

〈富良野MAP〉
このMAPは富良野を「ぼくたち流」に紹介したいと思って作った。内容は飲食店、宿泊施設、観光スポットなどの案内を中心に、へそ祭り、イカダ下りなどのイベント、郷土史、特産品などを記事風にまとめた。先にも書いた通り、基本的に富良野はモノよりヒトだと考えているので、徹底してヒトを載せた。飲食店のマスターやママ、おみやげ店のスタッフ、イベントの関係者、もちろんフラニストなど、総勢60名の顔があった。写真を撮るだけでも大変な仕事量だった。とにかく印刷以外は全部、高橋とぼくの二人でやった。それも3週間で。毎日、深夜まで働いた。あんなに働いたのは後にも先にもあの時だけだろう。
自分達が美味しいと思う店、自分達が行きたいと思う所、自分達が良いと思う物、それだけしか紹介したくなかった、そしてなおかつそこから掲載料も頂く、とまぁ自分勝手も甚だしいものなのだ。しかし、それをやらなければこのMAPの意味がないのだ、儲かればいいという問題ではない、と自分に言い聞かせて朝から晩まで歩き回った。簡単なレイアウトを高橋に描いてもらい、それを見せながら説明して、ついでに取材もしてしまう。写真も撮ってしまう。事務所に戻ったらその原稿を高橋に渡す、高橋はそれをもとにデザインやレイアウトをフィニッシュしていく。集まったものをどうするかではなく、同時進行的にページを作っていくのだ。期限はどんどん迫って来る。その年(昭和58年)の内に発刊しなければならないのだ。
日里さん、吉本さんにはまたもお世話になった。行付の店や知っているホテルに一緒に行ってくれたり、電話してくれたり。お金が絡むことなので本当に申し訳なかった。お陰様でこちらの自信の持てるリスト通りにすべてのところが協力してくれた。いまでもあの時のリストは間違っていなかったと思っている。今でも載ったほとんどの店が頑張っているし、評判がいい。
"異例"の編集後記として富良野MAPに載せたものを紹介します。
人口3万弱の富良野から、こんな「MAP」が出るなんて、正に"奇跡"です。この奇跡を可能にしてくれたのは、スポンサーのみなさんです。ほんとうに、うれしくて、ありがたくて、涙が出るくらいです。本来であれば、こちらから、お金を払ってでもご紹介したいお店ばかりです。このMAPをつくるキッカケは、私達が自慢出来るお店を紹介することによって、もっともっと富良野を知ってもらいたいと、思ったからです。富良野はいま、動いています。意欲的な人が確実に増えています。富良野は「おもしろくなる」って、実感として思います。どうか、このMAPを利用していただき、富良野のすばらしい仲間になって下さい。
結果的には2年間に定価500円で8千部を売り上げた。正に"奇跡"だった。期日のほうもギリギリ滑り込みセーフだったが、全スポンサーや書店に届け終ったのは年の瀬も年の瀬、大晦日だった。"年内"にこだわったのは、正月のスキー客に間に合わせたい気持ちがあったのと、実はこちらが本音なのだが、集金のことがあった。年末の請求書はその場で払ってくれる可能性が高いのだ。とくに富良野の場合は慣習的にそうなのだ。事実、ほとんどの店から100%近くの掲載料が入ってきた。オフィスFURANOの最初の年は、このお金のお陰で無事に年を越すことが出来たのである。ホッと一息。
 この仕事は会社の方向を決定づけることになった。現在、印刷に関わることを数多く手掛け、会社の重要な柱の一つになっているが、その最初の仕事がこのMAPだったのだ。その後、写真集、ポスター、カレンダー、絵はがき、パンフレットなど次々に成果を上げていった。
 富良野MAPは現在もう発行していない。商売としては必ず儲ると思うけど、あの時の会社の状況と今とではかなり違ってきていて、いま発行することのリスクを考えると二の足を踏んでしまう。まず掲載料の問題がある。集めることは無理なく出来ると思うけど、また「借り」を作ってしまう。こちらは部数も売り上げたし、宣伝にもなったという自負はあるけれど、それはあくまでもこちらの論理で、お金を出した方は「付き合い」という側面がある。つまり小田島のために出してやったと。実際にそうだということではなく、そう考える方が健康的だという意味である。もう一つは、「敵」を作ってしまう、ということがある。何故なら店を選ぶことで、選ばれなかった店の反感をかうからだ。一度、飲んでいたとき文句を言われたことがあった。この本に載っている店は誰がどんな基準で選んだのかと。お金を頂いた店を載せたし、あくまでもぼくたちの独断と偏見で選んだと断わっているからと、こちらの言い分はあるけれど、やはり載っていないところはあまりいい気持ちはしないのは分かる。だからと言って、お金さえ貰えばどんな店でも載せるのなら、このMAPの意味がなくなってしまう。あれやこれや考えると、とりあえず止めとこうということになる。
 しかし、チャンスがあれば、会社にもっと力がつけば、もう一度発行したいと思っている。富良野MAP決定版を!掲載料も低額で、全ページカラーで、ぼくたちの総力を結集した、この一冊で富良野のことはOKという、富良野MAPを!その時まで今しばらくお待ち下さい。でも、必ずやるからね。乞うご期待なのだ。

〈ふらのフラフラコンサート〉
日里さんの項で説明したけれど、あれは小田島個人としてのことで、会社としてもマネージメントを含めて関係したので、ここでは会社の面から書きます。成行きとは言え、公私共々関わった最初の大仕事であったことは間違いない。形としては、企画・オフィスFURANO、主催・北海タイムス社、後援・富良野青年会議所、富良野市観光協会、富良野市教育委員会、富良野商工会議所、富良野市青年団体協議会だったが、実質はぼくと日里さんがほとんどすべてを仕切った。
主催が北海タイムス社になっているのは、オフィシャルな交渉や要請をする時のために、当時支局長であった田中さんに頼んで引き受けてもらったのだ。それに、個人的な主催にすると「興行」の感じがして、こちらは街づくりのためのイベントで、街の活性化の役に立つと思っていても、周りからは金儲けに見られてしまう。実際、このようにしてもしばらくの間、会社自体が「イベント屋」みたいに思われ、それを払拭するのに大変な労力を必要とした。もうイベントはやらないのかと、聞かれることがあるけれど、あれ以来、手を出していないのには、そんな事情がある。
だからと言って、フラフラコンサートをやって後悔しているかと言うと、そんなことはまったくない。先にも書いた通り、色々勉強になったし、もの凄く楽しかった。それは、個人的にもだし、会社としてもそうだった。どちらかと言うと、うちは「ソフト」の会社だと思うけれど、ソフトの基本は「人」である。人をどこまで理解出来るかである。人を理解するためには、人を思いやる気持ちがないと駄目だ。つまり、ソフトの会社の根本的なことをこのコンサートから学んだのだ。人を思いやることを。出演者はもちろんのこと、スタッフ、協力してくれた人、入場券を売ってくれた人買ってくれた人、などなどを。ぼくは会社を経営していく上で一番大切なことは何かと問われれば、即座に「人を思いやる心だ」と答える。心底そう思っている。しかし、残念ながらというか、当り前というか、ぼくにそんな質問をした人はまだ一人も現れていないが。
タイムスの田中さんが主催するにあたり、コンサートを盛り上げるために、新聞一ページを全部使って何かを企画しないかと、提案してきた。それも上川版でなくて、全道版で。ぼくは臆面もなく、面白そうだからやってみたいと答えてしまった。いつも重大な事になると、とくにノリが軽くなる。ぼくは"また"人(フラニスト)を全面に出すことを考えた。趣旨としては、コンサートは街づくりの一環として開催するが、これを機会に日頃から街づくりに努力している人達を紹介し、その人達から富良野について一言コメントをもらおうというものだった。
商工会議所の会頭、お寺の住職、市役所の人、農家の人、ホテルのオーナー、ぼくらの仲間など、老若男女総勢41名。ぼくが、掲載するすべての人の顔写真を撮り、インタビューもした。この時も締切に追われに追われ、取材したら逐次原稿を旭川本社に送り、本社ではそれを見てコンピューターに打ち込んでいった。最後の方では旭川に何度も足を運んで、校正とか写真のチェックをした。
田中さんも変わった人だと思う。シロウトのぼくに紙面を任せて、悠々としていたのだから。この人からも仕事のやり方を随分教えられた。細かいところまで全部見ていて、全体の流れをきちっと読むけれど、表面はいい加減でどちらかと言うと軽く見せながら、結果として自分の思う方向にもっていく。田中さんは新聞というメディアを使って、一時期富良野の重要なある部分を作り上げたと言っても過言ではないほど、精力的に動き回っていた。その重要なある部分の片隅にぼくやオフィスFURANOも入っていたと、ぼくは今でも自負している。
北海タイムスを図々しくも一ページ全部を使った、タイトル「ふらのフラフラコンサートは含蓄だ!」の冒頭に書いた、ぼくの「私は富良野が好きです」をまず読んで下さい。
永六輔がくる。小室等がくる。三上寛がくる。おすぎとピーコがくる。信じられる、あんた!この豪華なメンバー。ぼくはうれしいです。ほんとうにうれしいです。富良野に生まれて心から良かったと思います。だって富良野だから来るって言ってくれるんだもの。 では、何故、来てくれるようになったか?それには、やはり、それなりのドラマっつうものがあるんですよねェ。
「FROM NORTHLAND WITH LOVE」という富良野初の本格的ミニコミ誌、世界初のビニコミ誌(ミニコミ誌をビニールに入れただけ)を、ご存知だろうか?まぁ別に知らなくてもいいけど。その二号目に「おひまなら来てよね、三上寛さん」という記事が載ったのです。つまり三上寛さんの歌を富良野で聞きたい、と。
FNWL誌はいわゆる"興行"をする気は全くありませんでした。何かのついででもいいから三上寛さんが、富良野でなら歌ってもいいよと、言ってくれるのを待つつもりでした。ビニコミ誌も送りました。手紙も書きました。電話もかけました。署名も集めましたが、世の中そう甘くはありませんでした。なかなか進展しませんでした。でも予感はありました。そして自信もありました。もし来てくれたら三上寛さんに「富良野に来て良かった」と思わせることを。だって富良野はイイ街だから。
そんな時です。ピーコさんが倉本聰先生を訪ねて富良野に来たのは。ピーコさんとはFNWL誌に原稿を書いてもらったりして、お付き合いさせていただいていました。
「あなた達、本当に三上寛を呼ぶ気あるの」と、いきなりピーコさんに言われた。「あぁ、ハイ」と、あいまいな返事。ピーコさんの言っている意味がよくわからなかったのです。話をよく聞くと、偶然というか、神様の思召しというか、三上寛さん、永六輔さん、小室等さん、そしておすぎとピーコさんが一つのチームを組んで、弘前と青森でコンサートをやることになっている。もし、きちんと富良野で受け入れることが出来るなら、三上寛さんは勿論、みんなにお願いしてもいいと言うのです。
「えっ、本当ですか。来てくれるんですか、富良野に。そんなすごい人達が。お願いします。お願いします」と、興奮したぼくと日里さんは頼んでしまったのです。
結果は明後日の二月二十日午後六時半の開演を待つばかりになりました。
と、まぁ、長々とイキサツを書きましたが、私達の根本的な考えでは、このコンサートが富良野のお役にたったらなぁ、ということがあります。つまり、私達は私達なりに富良野を考えたいと思っているのです。このようなすごいメンバーがこれから富良野に関わってくれる、というだけで十分に、富良野のためになると思うのですが、どうでしょうか? 私は富良野が好きです。山が、川が、街が、人が好きです。
このコンサートに合わせて、私は富良野について、色々な人にインタビューしました。これからの富良野を考える一つの参考になればイイと、偉そうな事を思っています。
紙面に41人全員の顔写真とコメント、正に、壮観だった。あんな新聞の使い方はタイムス社はもちろん、他の新聞社でも初めてだったと思うし、あれ以後も見たことがない。田中さんがいて初めて成し遂げられたと、今読み返してみてシミジミ思う。お互いの勢いと勘違いがそうさせたのだろう。いい時代だった。
いつしか8年の歳月が流れたのだ。
コンサートの前日に富良野に入ったピーコさんにこの新聞を見せたら、とても驚いて、幾らかかったのと心配した。この企画はぼくが紙面を埋めて、スポンサーは田中さんが集めてくれたので、お金は全然かからなかった。コンサートの収支も先に書いた通り、ギャラも払えたし、他の経費もすべて払って、少しおつりがきたのだった。総動員したオフィスFURANOとしても、事務費を含めて損はしなかったし、むしろ色々な意味でやって良かったという結果になった。
また何時かコンサートをやりたいという気持ちは多いにあるし、アイデアもある。そのためにはクリアーしなければならない問題も、順序として先にやっておかなければならない事業も沢山あるが、必ずやるつもりだ。詳しくは、今後のオフィスFURANOの展開とも密接に関係してくることなので、後で書きます。

〈一攫千金ツアー〉
茶畑さんの事務所でいつものように話をしていた。会社を始めてなんとか年を越し、いよいよ勝負をかける時期がきた。ここにオフィスFURANOあり!とみんなに知らしめることをソロソロやらなければならないと、真剣な「会議」が延々と続く。あの当時茶畑さんは自分の仕事はほとんどやっていなかったのではないだろうか。フッと考えると、ぼくの会社のためにあんなに時間を割いてもらい、いや無理やり割かせて、ほんとに悪いことをしたと思う。もちろん茶畑さんは結構楽しんではいたが。
それはともかく会議の結論は、他とはまったく違う発想のアウトドアツアーをやろうということだった。アウトドアツアーの実施は設立時から考えていたもので、実際に東急観光と話を進めていたし、キャンプ用品も揃え、カヌーの出来そうな川や野営地の選定もすでにしていた。このツアーのコンセプトは茶畑さんが倉本先生と一緒にオーストラリアで体験したツアーをベースにしていた。
茶畑さんから聞いた話では、カヌーに乗って、キャンプをしながら、かなり危険な川を一週間ぐらいかけて下って行くというもので、ツアーコンダクターが2、3人いるのだが、テ ントを張ることからほとんどすべてを自分でしなければならない。カヌーの操り方だって、ロクに教えてもくれず、転覆しようが岩に引っかかろうが、本当に危ない時以外は助けてくれない。本人にしてみれば、どんな些細なトラブルでも命がけなのに。参加者には老夫婦もいるのに。日本ではとても考えられないことだ。やれ保険だ、やれ補償だ、やれ法律だと、実施する方も参加する方も日本の機構に慣れてしまい、こんなツアーは成り立たないのだ。だけど考えてみれば、自分の命は自分で守るとか、危険かどうかは自分で判断するとか、当り前のことをちゃんと出来れば何のことはないと思うのだが。日本では当り前のことが通用しないのだ。この倉本先生と茶畑さんのオーストラリアのアウトドアツアーの話は、先生の「左岸より」(理論社)に詳しく載っている。
アウトドアツアーをやろう!と決まったって、差し当たり大掛かりなことはまだ出来ない。色々話しているうちに、この企画「富良野でキャンプ、そして砂金採り!一攬千金ツアー」に至ったのである。富良野から約20km離れた所に、金山という町があり、そこは名前の通り昔から金が採れ、昔ほどではないにしても、今でも金はあるということを茶畑さんが知っていた。早速、ぼくは金山に行った。人伝に聞いていくうちに、金山で実際に採れた砂金を見ることも出来たし、なんと!掘り師であった岡田正造さんに出会うことも出来た。
岡田さんは大正元年生まれで、昭和3年頃切り出した木材を川に流しながら運ぶ「流送」の仕事をするために金山に来た。昭和8年頃から「1日か2日やったら、1ヶ月分は稼げる」と、砂金掘りの仲間になる。当時は60人ぐらいの掘り師がいたそうだが、今では唯一人残った掘り師だ。岡田さんは約十種類ある砂金掘りの道具を全部持っていた。こちらの企画の話をすると嬉しそうに聞いてくれ、快く引き受けてくれた。砂金のありそうな沢も知っているとのことで、願ったり叶ったりだった。
昭和59年5月2日、3日の一泊二日の日程で行われた。2日は夜味なべと富良野牛のステーキをメインにした歓迎夜食会、それに続く焚火を囲んでの懇親会、その後はテントで就寝。この日の夜は倉本先生と岡田掘り師をはじめ、茶畑さん、吉本さん、日里さんも参加してくれて、大いに盛り上がった。その一部が先生の「冬眠の森」に出てくるのでご覧下さい。3日はいよいよ砂金掘りである。岡田さんは言っていた通り、鉄の棒で出来た「カナテコ」を自在に操り、年齢に似合わず大きな岩を次々に起こしていった。それは見事なものだった。残念ながら一粒の砂金も出てこなかった。しかし、みんなは満足気にそれぞれの街に帰って行った。
実はこのツアーには"事件"があった。茶畑さんと企画を立てている時に、偶然旭川に転勤していたタイムス社の田中さんに会った。色々話しているうちに、このツアーの話になった。ぼくは久し振りのこともあり、あまり意識もしないで内容のことや倉本先生も参加するかもしれないことなどを話した。それから何日かして、タイムスの記事に「倉本聰氏を囲む一攬千金ツアー」と先生の顔写真付きで出てしまったのだ。それを見た瞬間ぼくは先生の怒っている顔が浮かび、「マズイ!」と真っ青になった。田中さんを恨んでもしょうがなく、ぼくの不注意のちょっとした行き違いだった。先生に了解を得ていなかったのだ(この件りも「冬眠の森」に出てくるが)。ぼくは慌てて茶畑さんに相談に行った。こういう時はいつも茶畑さんに助けてもらっていた。よく解らないが、とにかく花を持って謝りに行った方が良いということになって、ぼくは花束を抱えて文化村の先生の自宅に伺ったのだ。
先生は怒っている様子もなく、むしろ優しい顔つきで受け取ってくれた。いま考えてもあの時のことは鮮明に憶えているし、教訓になっている。あんなに焦ったというか、心臓が止まる思いというか、とにかく大変な経験をしたのだった。

〈東急観光とのアウトドアツアー〉
先にも書いたようにアウトドアツアーの企画、実施は会社の大きな目的の一つだった。倉本先生、東急観光、オフィスFURANOの三者で何回も打ち合わせ、実際にスケジュウル通り体験もして練り上げたのが「富良野遊山"考"TOUR '84」だった。募集パンフレットのコピーには『「見る旅」から「体験する旅」へ。いま、とっておきのステージ、北の国〈富良野〉の、自然と愉快な仲間たちが、旅のカタチを感動的に変える。』と書かれていた。
三泊四日の日程で、一日目の夜は例によって「歓迎夜食会」、ブタの丸焼きをメインにした料理といつもの仲間(フラニスト)のおもてなし。野営地は空知川畔。二日目は「原始ヶ原」登山。この原始ヶ原は大雪山国立公園に位置し、秀麗な七つの滝や神秘な霊境の五反沼、千古の樹齢をもつ赤エゾ松、多種多様な高山植物などを有するとてもすばらしいところだ。三日目はカヌーと倉本先生指導による、フキの葉とヤナギの木を使って建てるアイヌの小屋「クチャ」作り。夜はその日に宿泊する富良野プリンスホテルでの「さよならパーティー」。
富良野でぼくたちがやれること、やってあげたいことはほとんど網羅したツアーだった。結果的には、一度しか実施出来なかったけれど、これからの北海道の「観光」を考えたとき、このツアーのコンセプトや意気込みは間違っていなかったと思う。ただ、商売的なことで言うと、やっぱり大変だった。
危険といつも背中合わせだし、参加者の人数はそんなに多くは出来ないし、だからと言って参加費には限界があるし、そして何よりスタッフが問題だ。人数もさることながら、質が問われるからだ。誰でもいいという訳にはいかない。参加者の人が満足しているか、手伝うことはないか、危険ではないか、24時間気を配っていなければならないのだ。この時は、東急の遠田さんをはじめ、ぼく、高橋、まり子、他2名がスタッフで、茶畑さん、吉本さん、仲世古さん、日里さん、そして山岳警備隊長の三善正勝さんが大いに助けてくれた。このツアーの成功はこのメンバーがいてはじめて達成出来たのだ。つまり、このようなツアーを成功させるためには、この人達がいつも必要になる。商売になりにくい最大の原因はここにあると思う。このネックをどう乗り越えるかが今後の課題だ。
このツアーもそうだけれど、富良野の観光は自然が相手のように見えるけれど、実は、「人」なのだ。受け入れる人、フラニストなのだ。自然や風景は二次的なものでしかありえない。大切なのは訪れた人に喜んでもらいたいと思うフラニストの「気持ち」なのだ。そんなことを実感したツアーだった。
以上のように、オフィスFURANOは動き始めた。
しかし、「麓郷の森」構想が企画され、その運営主体にオフィスFURANOがなることに決まってからは、会社の事情は大きく変わった。会社設立の時には、麓郷の森の構想はまったくなかった。
いま考えても、不思議な縁を感じる。縁は"運"かもしれない。色々な意味でタイミングがぴったりで、「そこしかなかった!」っていう感じなのだ。流れを上から俯瞰で見ると、麓郷の森を運営するために、仲世古さんや茶畑さんと出会い、イベントやミニコミ誌をやり、オフィスFURANOを設立して商売や商品のノウハウを一年間身を持って勉強したということになる。
繰り返すが、麓郷の森の構想は、会社設立の後なのだ。
以下、「麓郷の森」について書きます。