[オフィスFURANO物語] no.3
「麓郷の森(ろくごうのもり)」
会社設立からちょうど一年後の同じ日、昭和59年7月1日に麓郷の森がオープンした。この麓郷の森がオフィスFURANOを一変させた。
「北の国から」放映後、ドラマに使われた「五郎の丸太小屋」はロケ地にそのまま残っていた。初めは倉本先生、茶畑さん、仲世古さんの三人でちょっとした別荘として使うつもりだったそうだが、ドラマに感激した人達が全国各地から大勢訪れ、別荘どころではなくなった。日曜、祭日には道路や駐車場は人と車で完全にパンク状態になり、どう対応したらよいか先生はじめ茶畑さん、仲世古さんを中心にみんなで考えていた。「丸太小屋を守る会」もそんな中から生まれ、色々な活動をしながら、その後のことを模索していった。二年の月日が経った。人は途切れることはなかった。相変わらず大勢の観光客が訪れ、観光バスが来ることもしばしばあり、そこの場所は限界に達していた。
「北の国から」は連続ドラマとして終了してから、スペシャル番組としてその後も続いているが、昭和59年放映の「北の国から'84夏」で五郎の丸太小屋が焼失することになった。焼失したのはそのためのセットだったが、この機会に丸太小屋を移設し、それを中心にして新しい観光の拠点を作ろうということになった。ちょうどすぐ近くに仲世古さんの会社、麓郷木材が所有している森があったことも幸いして、話はトントン拍子に進んだ。
が、問題点はいくつもあった。最大のものは、一体誰がそこを運営していくのかだった。中心に話を進めていた仲世古さん、茶畑さん、吉本さんは自分の仕事でいっぱいだった。かと言って、片手間でやれるほどの規模ではなかった。そこで白羽の矢が立ったのがぼくだった。その当時、白羽の矢が立つほど、ぼくがみんなの信頼を得ていたかと言うと、そうではなかったと思う。ただ単に他に適当な人が誰もいなかったということと、ぼくなら年もだいぶ下だし勝手なことはやらないだろうと考えたからだと思う。
ぼくの方も、先輩の言うことをちゃんと聞いてやっていけばイイと、暢気に考えていた。いま思い起こすとヅッとするほど甘く考えていた。
しかし、麓郷の森の運営と経営はオフィスFURANOが"すべて"やることになったのだから、多大な「リスク」をぼくが背負うことになったことは確かだった。 
普通このような街づくりから発想した事業は、関わった人達がお金を出し合って、なくなったらまた出して、それでも駄目ならやめてしまい、責任はみんなでとり、特定の人に過重なリスクをかけないというのが大半だと思う。それでは本当の意味で真剣になれず、結果として失敗してしまう。この事業、麓郷の森は、小田島にリスクをかける。このことから始まり、これがある意味では成功の鍵だった。と、今になってみれば、少しは理解出来るが、その当時は事の重大さに、ほとんど気付いていなかった。
リスクが人間を大きくすることは間違いないと思う。ぼくはたまたま運が良くて、どうにかここまでやってこれたけれど、絶対後戻りをすることが出来ないほど大きなリスクがなかったら、途中で息切れしていたかもしれない。もちろん今も同じ分量いや、それ以上のリスクがあることには変わりはないが。とにかく、麓郷の森はオープンした。
例によって挨拶文、「麓郷の森ご案内」を市役所はじめ各方面に出した。
拝啓 初夏の候いよいよご清栄のこととお喜び申し上げます。

さて、麓郷は「北の国から」放映以来、富良野観光の拠点として重要な位置をしめるに至り、年間20万人近い観光客が訪れています。
この度、その中心的存在の「五郎の丸太小屋」が次回のドラマの設定により焼失し、他の場所に移動しなくてはいけなくなりました。幸い、今までの近くにある場所を麓郷木材様よりお借り出来ることになり、「麓郷の森」の名のもとに再建する運びになりました。
「麓郷の森」は五郎の丸太小屋だけではなく、他にも色々な丸太小屋や施設を作り、富良野に来ていただいた観光客の人達が何でも体験できる体験観光の基地にしたいと考えています。丸太小屋やテントで寝泊まりしながら自分でマキを切り、水を汲み、食事を作り、風呂をわかす。そして、畑で野菜や花を育て、丸太でイスやテーブル、鳥の小屋、やろうと思えばログキャビンも自分の手で建ててしまう。
春は釣り、夏はカヌー、サイクリング、バードウオッチング、登山、秋は山菜取り、森林浴、冬はクロスカントリースキー等など。大自然の中で体ごと体験しながら生きることの喜びや厳しさを知る。それがまた富良野の良さを知ることでもあると考えます。
全く新しい試みにつき、不手際などで大変御迷惑をおかけすると思いますが、若さとやる気で一生懸命頑張る所存でございますので御指導、ご鞭撻の程よろしくお願い申し上げます。  敬具

ここにオープンに先立つ昭和59年4月28日付の企画書がある。
どんな事業でも同じだと思うけれど、麓郷の森も企画の段階、スタート時点、そして現在と、かなり変わってきた。
〈麓郷の森企画書〉
  • 趣旨
    倉本先生の「北の国から」の精神と我々がここ北国で感じ、触れてきた、生活、体験をこの麓郷の森に集約し、富良野市民はもちろんのこと富良野に訪れる人達に(自然に、労働に、人間に、文明に、自分に)感動できるような空間にしたい。いま全ての人々が失いかけている部分を麓郷の森で少しでも補うことが出来たらと思う。
  • レイアウト
    「五郎の丸太小屋」をキーステーションとして森全体の中心に据え、それを8つのスペースが取り囲む。
  1. キツネの台所
    北キツネをはじめとする色々な動物とのスキンシップのスペース。餌場を設置し、動物 の生態観察の中からコミニュケーションをはかる。
  2. キャンピングスペース
    キャンプをする人や学校、会社、家族の教育に利用出来るスペース。露天風呂、トイレ の設置。
  3. バーベキュースペース
    各種野外食に関する道具を揃え、"火"の存在や食事の尊さを感じてもらう。また、野 外コンサート、各種催し物のメインスペースとしても活用。薫製小屋の設置。
  4. ワーキングスペース
    開墾、製作等から精神修養をし、森の運営資金に結びつく販売の役割ももつ。また、学 生の実習体験のスペースとしても利用する。畑、炭焼き小屋、陶器窯、ウッドクラフト 工場、宿泊施設などの設置。
  5. バンガロースペース
    森を訪れる人達に宿泊施設を提供するスペース。
  6. ミニ別荘スペース
    北海道にかかわらず全ての人を対象にした、文化村的な存在のスペース。土地とログキ ャビンを分譲販売する。自主製作を基本とし、管理は麓郷の森で責任をもって行う。モ デルハウスの製作。
  7. 小鳥の森
    キツネの台所に隣接し、餌場、小鳥小屋を設置。小鳥小屋は森を訪れた人のハンドメイ ドとし、製作者の名前と製作年月日を記入してもらい存在感を与える。また、小鳥の声 を聞きながら瞑想する空間も作る。学校の野外授業の場としても活用。
  8. 教会
    自分達だけで演出する結婚式。ウエディングロードを渡りながら森の木々や動物たちに 祝福され、自然の中から愛を感じとってほしいスペース。教会、ウエディングロードの設置。

    以上、麓郷の森を8つのスペースに分けたが、それぞれのスペースは互いに関連しあい、トータルとして森を機能させていく。また、森にはアウトドアスポーツの拠点としての位置づけもあり、サイクリング、乗馬、フィッシング、カヌー、クロスカントリースキー、バートウォッチングなどに関するインフォメーションやツアー企画などを行う。
「麓郷の森」の名前はぼくが命名したもので、「フラニスト」とともに自分でもなかなかいいと思っている。このこともそうだけれど、オフィスFURANOを始めてから色々なことをやってきているが、その基本的な考え方というか、大きくいえば哲学というのは、「簡単に考える」だと思う。
麓郷にある森だから、麓郷の森。ピアノを奏でる人、ピアニストから、街(富良野)を奏でる人のイメージが浮かび、フラニスト。富良野に事務所があるからオフィスFURANO。とにかく、捻ったり、難しく考えない。麓郷の森は今や地名として、ちゃんとした地図にまで載っているし、フラニストは新聞の記事にまで出るようになった。今売っているオリジナル商品も同じ発想で作っていて、結構評判が良いがこのことは後で詳しく書きます。
さて、麓郷の森が「企画書」に書いたコンセプトで進めようとしたことは事実だけれど、お読みになってお気づきの方もいると思いますが、お金のかかることばっかりで、収入に関しては心許ない企画書だった。一体、最初に借金するのはいいけれど、具体的にどうやってそのお金を返し、自分達が食べて、なおかつ計画を展開していくのか。またしてもオフィスFURANO設立の時と同じように、カン、クセ、ナリユキのいいかげん三点セットで決めてしまって、漠然とどうにかなるべぇと考えていた。恐ろしいことである。しかも、会社設立の時だって、自分にとっては大変な借金だったが、今度はそれどころではなく、とんでもないリスクを被ることになるのだ。悪いことに、この時期に結婚までしてしまったのだ。先輩の「あいつ、なに考えてるんだ!」の声が耳元でエコーしたが、しょうがない。これもナリユキだ。
そんな時、高橋がポツリと言った「社長(ぼくはそう呼ばれている)夢もいいけど、収入になることをもっと考えないとマズイよね」は、胸にグサッときた。そして、「ハッ」とした。こんな当り前のことにハッとするのはおかしいと思うかもしれないが、ぼくは一つのことを考えると他のことは全く頭になくなるタイプで、この時はとにかく麓郷の森をオープンさせることしか頭になかった。目から鱗が落ちた。いまだに高橋の言葉をはっきり憶えていて、あの言葉がなかったら今頃どうなっていたんだろうと思うとヒャッとするところをみると、あながちオーバーでもないと思う。しかし、この種のことは時々あって、高橋は割といつも冷静というか、変に醒めていて、ぼくは命拾いをしている。
企画は企画として、とにかくお金になることに重点を置いて、やっていこうということになった。先輩達はあまりいい感じはしなかったと思う。先輩達の麓郷の森にたいする思いは、お金より夢に多くの比重がかかっていた。夢があるから応援するという気持ちが強かったと思う。実はスタートする時点から先輩達とは微妙な齟齬が生じていた。言い訳するわけではないが、高橋に言われるまではぼくも先輩達の考えに近かった。でも、高橋が心配するようにリスクはすでに背負ってしまったのだ。

〈麓郷の森基礎工事〉
麓郷の森は40,000平方メートル(12,000坪)の面積だが、周囲が畑と東京大学所有の演習林になっているために面積以上に広く感じる。もともとは学校林だったのを仲世古さんの会社麓郷木材が購入して所有していた。ぼくと高橋が初めて森に入ったときは全くのガサ薮で、途方にくれたことを憶えている。どこからどうやって手をつけたらよいか見当もつかなかった。
梱包に使うビニールテープとメジャーを持っていって、どうにかおおまかな測量をして、高橋は図面を書いた。図面といってもスケッチ程度のものだったが、それが基準になって麓郷の森は出来上がったのは間違いない。とにかく道路も水も電気も電話もなにもないのだから、自分達だけですべてやらなければならなかった。一つの小さな村を作ることと同じだった。
まず、道をつけなくてはならない。ぼくと高橋は、木は最小限に切るということを確認し、あまり木の立っていないところを捜して道にした。ビニールテープを二人で引っ張りながら「こっちの方が木が少ないよ」とか「あっちの方は木がないよ」とか声を掛けながら決めていった。だからクネクネ曲がっている。後に、麓郷の森は道が適当に曲がっていて全体のバランスがとても良いと誉められたことがあるが、それは意図的にそうレイアウトしたのではなく、そんな事情で今のようになったのだ。
次は水だ。もちろん水道なんてきていない。井戸だ。富良野に生まれた田舎者なのは事実だし、別に都会人ぶるつもりはないが、ぼくは井戸のことなどまったく知らなかった。仲世古さんが多少知っていたので、機械(ユンボー)で穴を掘り土管を何本か立てて、簡易の井戸を作ったが、水質が良くならず失敗。ヤツメという先が尖っていて沢山穴があいている管を打ち込んだら、岩石が多い地質のため管が入っていかず失敗。いよいよ最後の手段、ボーリングをやることになった。
初めからそうすれば良かったのだが、ものすごくお金がかかるので、なんとか他の方法で出したかったのだ。何しろ1メートル掘るごとに料金が加算される。当時1メートル2万円位が相場だったと思う。普通でも30メートルは掘らないと水は出ないと言われていた。もちろん100%出るという保証は何処にもなく、出なくても料金は当然だが取られる。しかし、水がなければ麓郷の森そのものの運営が出来なくなってしまう。ボーリングをやることにした。
30メートル掘っても、水は出てこなかつた。とにかく続けてもらうことにした。50メートル掘っても出てこなかった。2掛ける50は100万円。目の前が真っ暗になった。思いあまって職人さんに、出るか出ないかだけでも解る方法はないのかと聞いてみた。「それがボーリングだ」とそっけない返事。続けてもらうことにして、本要寺に向かった。
ぼくはそんなに信心深い方ではないが、どういう訳かお坊さんに縁がある。とくに日蓮宗の本要寺のご住職には大変お世話になっている。そのご住職は祈祷もやることで知られている。ぼくは店を開店した時や車を買った時などに「お祓い」をしてもらっている。なにしろよく効くのである。水のことを切り出した。事の次第を説明して、水が出ないと麓郷の森の計画はおろか会社自体の存続にまで影響するので、何卒よろしくお願いしますと頭を下げた。「掘る前に来れば、何の事はなかったのに」と一言。毎日、朝晩のお勤めの時に祈祷してくれることになった。
90メートル掘っても出てこなかった。職人さんにどうすると聞かれたので、こうなったら出るまで掘って下さいと言ったら、「これ以上掘っても、出るとしたら温泉だ」と真面目に言われた。いまでこそ冗談話のようになっているけれど、あの時の「温泉だ」には真っ青になって泣きだしたくなったものだ。どうすることも出来ない絶望的な状況に、一条の光が射したのは職人さんがシブシブ言った「とにかく、水が出るように考えよう」だった。掘るのを止めて何日か何かを試しているようだった。何をやっているのかは、なにしろ地面の下のことなので想像するしかないが、シロウトの浅知恵で手に負えるものではなかった。しかし、とうとう水が出た。
職人さんに詳しく聞くと、いわゆる水が出るとか、水脈に当たるというのは、地下を流れる大きな川みたいなものを見つけて、そこから水を汲み上げることを言うらしい。川が何故出来るかと言うと、浸透してきた水をせき止めて溜める岩盤があるからだ。つまり、水を捜すことは岩盤質の場所を捜すことでもあり、その岩盤質は地面に対して上がったり下がったりしているので、岩盤質が地面に近ければそんなに掘らなくても水は出るが、運が悪く地面から離れていればかなり掘らなければ出てこない。もちろん岩盤質がなくて水が出ないこともありうる。
麓郷の森はおそらく運が悪く岩盤質を外したところにボーリングをしたらしく、ついに地下を流れる「川」には出会わなかった。しかし、地下には川だけではなく「小川」もあり、どうやら麓郷の森の水は小川を何本か集めてのものらしい。30メートルにある小川、50メートル、70メートル、90メートルと、各層から吸い上げて一定の水量になっているのだ。だから森の水は出たと言うより、出したと言った方が真実に近いと思う。
早速、本要寺のご住職に報告に行った。ご住職は「じゃ、もういいんだな」と言って、やおら祈祷場の仏壇から短冊状の紙を剥した。紙には大願成就、水、麓郷の森などの文字が見えた。「今度掘るときは、必ず掘る前に来なさい」と一喝。ぼくはかしこまって、お礼を置いて帰ってきたのだった。
麓郷の森の水は大変美味しいとよく誉められるが、その裏には数々の苦労とエピソードが隠されているのだ。今は時々しかやらないが、水の出た年は毎日最初の水には手を合わせてから飲んだものだった。支払いの方もボーリング屋さんがこちらの事情を考慮してくれて、破格の価格にしてくれた。ぼくはまたまた手を合わせ「南無妙法蓮華経」を唱え、水の神様に感謝したのだった。
電話と電気の工事は水と比べればごく簡単だった。今はどうか知らないが、あの頃は人家を建てたら余ほどのことがない限り、僅かな金額の負担だけで工事をしてくれる決まりになっていたからだ。ただ電気の工事がオープンまでに間に合わず、発電機で2週間営業したのは、トラブルもあって大変だった。
なにはともあれ道路、水、電話、電気と、森を運営するための基本的な工事は終了した。

〈麓郷の森建築工事〉

  • 黒板五郎の丸太小屋
    富良野塾の塾生によって、建っていた元の場所から移設された。土台はあらかじめ石を積んで作っておき、その上にバラバラにして運んできた丸太を組み上げていった。屋根は柾葺きなので、大変だった。第一に柾がないし、柾があったにしても柾葺き職人なんてもういないからだ。しかし、幸いにもトタン屋さんが昔使っていた柾を仕舞ってあったのと、偶然にも昔柾を葺いていた職人さんが見つかったのだ。口に柾釘をいっぱい入れて、要領よくそれを取り出し、リズミカルに柾を葺いていく姿は圧巻だった。今もまだ雨漏り一つしないで健在だ。
  • 管理棟
    会社として最初に建てたログキャビンで、森のキーステーションと位置づけ、森の窓口として、そして喫茶、レストラン、売店としての機能も果たす。平成元年に建った、「彩(いろどり)の大地館」が出来るまでの5年間、僅か16坪のスペースが森全体の運営とオフィスFURANOの活動を支えた。会社のほとんどの収入がここから生まれたのだ。今は夏のシーズンだけ喫茶、レストランとして利用している。
    「麓郷の森企画書」の段階では管理棟を建てるアイデアはなかった。企画書が完成し、森のニュアンスも頭にインプットされ、実感として計画の全体像が見えはじめ、高橋と具体的な話が出来るようになって、やっと「管理棟」に行き着いた。もし、これを建てずに他のものから手を付けていたら、会社はなくなっていただろう。オープンした日から予想以上に商品が売れ、喫茶もフル回転したにも拘らず、資金繰りは決して楽ではなかったからだ。始めてみると森を運営していくのは、思ったよりずっとお金が掛かることに気付いた。
    管理棟もそうだけれど、他の建物の設計もすべて高橋がやった。森全体のレイアウトや建物のインテリア、看板のデザイン、いわゆるセンスが必要なことやデザインに関することなら何でも高橋だった。
  • ログ1
    高橋夫婦が住んでいる家。富良野産のエゾ松とトド松を使ったログキャビンで丸太組みの工法が簡単で、独力で建てたい人には参考になると思う。この建物も企画書にはなかったが、ぼくはどうしても建てたかった。
    ぼくが森に行くようになって感じたことは、森に住んで生活をしなければ真に森のことは分からないし、来てくれる人達に対しても森の良さを伝えられないのではないかということだった。それに、住んで生活すれば愛着も湧くし、細かいところまで気を配ることも出来る。高橋夫婦に無理を言って住んでもらった。最初は戸惑ったようだったが、慣れてくると快適そうにしている。
    色々な質問を受けるそうだが、その中で一番多いのはやはり寒さについて。二月の冷える日は零下30度を越えることもあり、勿論半端な寒さではない。しかし、これも考え方の問題で、セントラルヒーティングのマンションに住んでいるわけではないし、森は森の生活の仕方があるのだから、寒ければ厚着をしたり、色々な工夫をすればいい。とは、住んでいないぼくが言えるセリフではないが、高橋夫婦はそうやってくれている。
  • バンガロー
    バンガローは全部で6棟あるが、そのうち3棟がオフィスFURANOの所有で、他の3棟は仲間の所有だ。オフィスFURANO所有の3棟のうち2棟は後述する写真家、那須野さんと高橋、そしてぼくの3人で建てたものだ。那須野さんと高橋は器用で、チェンソーを自由自在に操り丸太を加工し積み上げていく、不器用なぼくは2人の「テコ」(仕事を補助する人)になり、積み上げられた丸太を木栓でとめていく。いま考えると3人とも随分ヒマだったと思う。延べにしたら3カ月ぐらい他に何もしないで打ち込んでいたのだから。
    たまに3人で話すことがあるのだが、時間とお金さえあれば自分達だけでかなり大きな丸太小屋を建てる自信はあるなと。残念ながら、いまのところまだ、そこまではいってない。
  • 森の台所、森の風呂、森のトイレ
    バンガロー宿泊者やキャンプの人達のための施設で、初代の風呂桶はイチイの木で作った特製のものだった。
  • 森の写真館
    4.5坪の小さなギャラリーで、富良野出身の写真家、那須野ゆたか氏が撮影した、富良野周辺の風景写真が常時展示されている。この小さな森の写真館こそ那須野さんの写真家としての出発点となったところで、同時にまたオフィスFURANOにとっても、もっとも重要な意味を持つものになった。
    無我夢中で森をスタートさせ一段落した時に、森の雰囲気にあうもので何かないかと考えたのがこれで、語呂とイメージがいいのですぐ決めた。しかし、資金はほとんど使ってしまい手元にはなかった。こういう時はどういう訳か日里さんの顔が浮かぶ。早速相談にいったら、幾らかかるんだと聞くから、120万ぐらいと答えると、いとも簡単にわかったと言った。
    麓郷の森には年間に20万人以上の観光客が訪れているが、そのほとんどの人がこの写真館に足を運ぶ。おそらく日本で一番写真を見られている写真家は那須野さんだろうと思う。
  • 彩(いろどり)の大地館
    麓郷の森をはじめてちょうど5年間経った、平成元年7月1日にオープンした。オフィスFURANO設立が昭和58年7月1日、麓郷の森オープンが昭和59年7月1日と、ぼくはどうも縁起を担ぐ方だと思われそうだが、実はそうではなくて、どうしても「この日」でなければならない日なんてないのだから、何時だっていいわけだ。何時だっていいのなら、じゃ「同じ日」にしようというのが真相です。そんなことどうでもいいか。
    この建物は会社にとっては大きな投資というか、賭というか、かなりの決断だったが、結果としては、やって良かった。売上のこともあるけれど、うちの会社は結構色々なことをやってきたし、それなりに刺激もあったけれど、5年間も同じようことを繰り返すと緊張感が段々なくなってきて、なんとなくダラケた感じになっていた。それはフッ飛んだ。高橋も、まり子、社長も引き締まった。
    彩の大地館はオフィスFURANOを一回り大きくしたと思うし、新しい展開への大きなステップにもなった。具体的には「森の管理棟」の売店の部門の拡大なのだが、いままで以上に商品コンセプトを明確にして、富良野のイメージ、麓郷の森のイメージなどを損なわずなおかつ新しい可能性を感じとれるものにしたいと考えている。建物の命名もそのことを意識したもので、一つのキーワードとして「彩の大地」を捉えている。
    キーワードとしての「彩の大地」については、これからのオフィスFURANOの項で詳しく書きます。

次に、麓郷の森に関係する新聞記事を載せますが、以下の項でも紹介出来るものがあれば載せていきます。ぼくが書いた内容と多少ダブルけれど、その時々に取材され、インタビューされたものが記事になっているので、その当時の"息吹"がよりよく伝わると思うので、敢えて、転載させていただきました。

〈麓郷の森、関連新聞記事〉

見出し 「麓郷の森」きょう開幕 (昭和59年7月1日)
【富良野】テレビドラマ『北の国から』の丸太小屋をキーステーション、体験する"観光基地"として富良野の総合案内所、オフィスFURANOが整備を進めていた『麓郷の森』がきょう一日からオープンする。
麓郷の森は、ロケ地に近い麓郷木材の所有林約四ヘクタールを同社が借り受けたもの。ロケのため今年春に取り壊された『五郎の丸太小屋』を移転し、小屋を中心に、自然をそのまま生かした整備を行った。
これまでに丸太小屋のほか、レストハウス、駐車場、キャンプ場、遊歩道が出来上がった。さらに、今年中にミニバンガロー数戸、大型の丸太小屋を一棟を建設する計画だ。
麓郷の森は、見る観光と対極をなす体験し、参加する観光基地を目指している。観光客が丸太小屋やテントで寝泊まりしながら、自分で、炊事するのはもちろん、畑づくり、丸太小屋づくりなど、参加できるようになっており、汗を流して、富良野の自然を楽しんでもらおう、という計画だ。将来的には炭焼きや陶芸ができる施設も建設する予定。観光客自身の手により、これまでにない、観光基地を作り上げていく。
オープンを前に、既に多くの観光客が詰めかけており、問い合わせも多い。一日夕、関係者を集めて、オープンを祝い、早速一般に開放されるが、富良野の新名所として注目を集めそうだ。

見出し 「麓郷の森」観光客らで大にぎわい (昭和59年8月8日)
【富良野】七月一日、富良野岳のふもと麓郷地区に新しい観光基地を目指してオープンした「麓郷の森」が、夏の観光シーズン真っ盛りを迎え、この一カ月余り若者や家族連れなどで連日大にぎわいを見せている。
「麓郷の森」はテレビドラマ「北の国から」で使われた主人公(黒板五郎)の丸太小屋移設をきっかけに、地元で木材会社を経営する仲世古善雄さんが自分の民有林地を提供したことから具体化した。
広さは約四ヘクタール。移設された丸太小屋をメーンに同じく丸太造りの休憩舎(喫茶、売店)全長五百メートルの散策コース、駐車場などを備えている。オープンして一カ月を過ぎ、管理運営を担当する「オフィスFURANO」(小田島忠弘代表)によると、訪れる観光客は平日で七百人、日曜には二千人を越えるという。そのほとんどは自然を肌で感じとろうという本州方面や札幌からの学生、OLグループに家族連れ。テレビ「北の国から」もこの人気に拍車をかけている。観光客らは黒板太郎の丸太小屋などをバックに盛んに記念写真のシャッターを切っている。
また今月に入り整備を継続中だった炊事場、トイレ、なども完成し、二十張り収容のキャンプ場も正式にオープンした。これで同森が目標とする「体験観光」基地の実現がいっそうはずみをつけた格好。このほか今月中にはいずれも丸太造りの宿泊用バンガローと写真展示などのギャラリー建設が始まる。
さらに「冬場には歩くスキーを取り入れて大々的に通年観光へ持って行きたい」(小田島代表)と関係者のアイデアは膨らむ一方だ。

見出し 道まちづくり百選 (平成元年2月1日)
【富良野】道など主催の北海道まちづくり百選に、富良野から『ワインハウスとその周辺』『麓郷の森』が選定され、このほど認定証授与式が札幌で行われた。三十日、認定証が滝口市長に披露された。
この百選は、道内各地の優れたまちづくりを道民が応募して審査、選定した。『ワインハウスとその周辺』は秋・冬編のまちおこし、むらおこしに選ばれた。『麓郷の森』は春・夏編のふるさとの魅力の発掘に選定されたもので、特に民間手づくりで進められている『麓郷の森』が選ばれたことは珍しい。
この日、ワインハウスの遠田敏男所長、麓郷の森で写真館などを経営している小田島忠弘さんが市役所を訪れ、滝口市長に認定証の盾を披露した。小田島さんは『麓郷の森は観光名所となった。観光ツアーのお年寄りからバイクツーリングの若者まで、幅広い年齢層が楽しんでいただいているが、今後も立派な賞に恥じないようしていきたい』と述べた。 これに対し滝口市長は『市や道など自治体がまちづくりを進める中にあって、麓郷の森は民間の手でつくられたことは意義深い。これからの観光は民間の協力をいただかなければならず、麓郷の森は富良野観光の拠点で、今後も観光客に親しまれる施設として頑張ってほしい』と励ました。


〈麓郷の森まとめ〉
麓郷の森は今年で早いもので8年目を迎える。先輩達の強力な後押しがあったとはいえ、よくここまでやってこれたなぁ、というのが実感です。実行前に、ある人(良識ある知識人)にこの麓郷の森の計画を勢い込んで話したら、「あんたも好きだねぇ」と軽蔑までもいかない、扱われ方をされたことを思い出す。悔しいというより、世間の普通の人はやっぱりそう考えるのかと、変に納得したのを憶えている。
オープン前日、数少ないオリジナル商品や仕入れ品をケースに並べていたら、ちょうど来た茶畑さんがそれらの商品を見て、「随分ガラクタがいっぱいあるな」と何気なく言ったことも、懐かしい思い出になりつつある。いま思い返すとよくあんな商品構成でやってこれたなと不思議に思うけれど、よーく考えると今のオリジナル商品の「原型」のすべてがすでにあの時あった。しかし、資金力とルートがなかった。商品については次項で詳しく書くので、ここではこれくらいにする。
新聞記事にもある通り、オープンしてからすぐに観光客が来るようになり、年々その数は増えている。それは、テレビドラマ「北の国から」と富良野に住んでいる倉本先生の強烈なインパクトに加え、ラベンダー畑や丘陵地帯のイメージが富良野を一躍、観光地として定着させたことが、大きな要因だと思う。富良野に人が来れば、麓郷の森にも人が来る。そうなっている。
麓郷の森は、企画段階と現在とでは内容にかなりの違いが出てきている。それは仕方のない部分と意識的に変えた部分と両方あるが、その大きな原因は、みんなが考えていた以上に観光客が大勢訪れるようになったのと、考えていた以上に「麓郷の森」が影響力を持つようになったからだ。もちろんこの二つのことは密接につながっていて、人が増えたから影響力も増えたのだ。
当初、細い砂利道だった周辺の道路が、今では幅の広い舗装道路になった。昨年、ピーク時には大混乱していた狭い駐車場の続きに、大きな駐車場が出来た。今年、汚い溜め式のトイレが本格的な水洗トイレになった。これらはすべて「行政」がやってくれた。市長はことあるごとに富良野は農業と観光の街だと言っているが、麓郷の森に関しては感謝している。民間が頑張って、行政がサポートする。これが理想です。直接には関係ないと思うが「まちづくり百選」に選ばれたことは、行政との関係ではプラスになると思う。
これからの麓郷の森の方向は今まで通り、「訪れた人に富良野の良さを、よりよく伝える」というポリシーを踏まえ、色々な可能性を追求していくが、麓郷の森での経験をベースに、まったく新しい「空間」を別な場所に創る計画もある。