何かの拍子に富良野のビデオが出来ないだろうか、という話になった。早速、那須野さんと二人で電器屋に行った。そこの人に本格的に撮影するには、機材のレンタル料やスタッフの賃金に多額のお金がかかるから無理だと思うけれど、いまのホームビデオはかなり高いクオリティがあるからホームビデオで撮ったらいいと言われた。ぼくらは素直に、そうかホームビデオか、とその線で色々調べはじめた。調べていくうちに、ホームビデオのクオリティがいくら高くなったって、所詮はホームビデオという結論になった。当り前と言えば当り前だけれど、あの電器屋のクオリティって一体何なんだと、二人でムッとした。

しかし、いつもの通り、ここからが頭の使いどころなのだ。たまたま富良野に戻って来た友達、ミニコミ誌にも鮒志田良の名前で書いてくれていた西本が、札幌で学校関係の仕事をしていたのを思いだした。ビデオに関する学校がないか、あったらそこを紹介してくれないかと頼んだ。うまくしたもので、「北海道スクールオブビジネス専門学校」に放送芸術学科があり、そこの人を良く知っていると言う。
すぐ、札幌に走った。担当の先生に、テープ代や交通費、宿泊費などの実費はすべて当方で負担させて頂くので、機材と生徒を実習という形で協力して頂けないかと提案した。結構難しいだろうなと思っていたが、割と簡単に承諾してくれた。もちろん著作権はこちらにしてもらった。
まずは那須野さんの「取材ノート」を読んで下さい。
「富良野のビデオだって!おもしろい!」 '84年、秋の雨の日の夕方、麓郷街道を富良野に向かう車の中で、そんな話になった。
以来、電器屋を歩きまわったが、ホームビデオではハナシにならず、かといってプロに頼むお金はあるはずもなく、結局は夢に終ってしまうと「楽観」していた。 '85春、しかし、突然その話は具体的なものとなってしまい、夢を語るようなわけにはいかなくなった。専門学校のビデオ科の先生と生徒が協力してくれることになったのだ。
そして、 '85年8月、そのスタッフ一行6名が麓郷の森にやってきた。18才の学生5名、先生1名、これで全部だ。学校に入って4ケ月。2、3度カメラを触ったことはあるという。ありがたいことに、ズブの素人が社長と高橋さんを含め、みごと9人も揃ったわけだ。肝心の僕は、ともかくも夢のハナシだけにしておけばよかったものをと、18才の学生を見ながらずいぶん悲観的だった。だいたい一番の素人が指示を出す僕なのだから始末におえない。こんな連中に金を出す社長の心臓はどんな仕組みになっているのか。
夏は朝2:00に起き、夜明けには現場へという毎日で、寝るのは23:00過ぎ、睡眠は平均2、3時間。朝食も昼食も車の中でお湯を沸かしてカップラーメンとおにぎり。とりあえず、いっぱい撮っちまおうという気持ちが仮眠も喫茶店も許さなかった。
初日はまず、どのような機械なのか試してみなければならなかった。夕陽は紅く写らないという先生の話は違っていたし、露光もマニュアルで使ったほうがおもしろい。なにより、真昼の白バランスのまま朝も夕も撮影することの意味を理解してもらうのに四苦八苦した。
富良野は盆地なので、夏は暑く冬は寒い。夏に33度Cになった日があって、ロケ用のワゴン車はオンボロだったが、それでもクーラーがついていて楽しみにしていた。それなのにスイッチを入れたとたんヒューズが飛んで使いものにならなくなった。その暑さの中、肝心な時にクーラーが役にたたないと思っただけで無性に情けなくなった。ただのオンボロワゴン車は砂利道を走る度に蒸し風呂になった。
何度やってもOKが出ず、車の上でカメラを振る学生がヤケになつている。パーンがうまく出来ないだけのハナシで40秒のシーンに2時間以上つき合っている。真夏の太陽は彼の首を真っ赤に腫れあがらせ、涙のような汗も見えた。
冬のマイナス25度Cの真っ暗い朝、誰を恨んでもはじまらないが、この暗さと寒さの中、外へ出て行かなければならない自分達がどうしても納得できず、とりあえず言い出しっぺの社長と自分達の前世を罵って、気合いを入れる。どんな善意を持ってしてもあのシバレル真っ暗な冬の朝を許す気になどなれるはずがない。午後に陽がさして冷え込む気配の時は、夕方めがけて出かけていった。高く晴れた天には半月があってガーンとシバレル夕暮れになった。雪の丘を膝まで埋まりながら移動した。肺の中がつき刺さる冷気と心臓の音で痛かった。
移動中にはみんな眠っている。ここで眠らせてくれれば人生のすべてを渡してもかまわないという気にさせる。記憶にない街や信号が幾つもある。自分がいま何処へ向かおうとしているかさえはっきりしないまま、手足が勝手に反応して、まるで自分の棺桶を運転している気分だ。
とても自分が自分の意志でその場所へ向かっているようには思えない。何か大きな力があって、その中で僕らは動かされていたような感じがしていた。
最後まで要領がつかめず、いつも寝不足で言いたいことは通じず、パーンもズームもままならない。スタッフは学生だし、僕らは素人だったが、ともかくもこれが出来なきゃ全員デクノボウだと言い聞かせて、一年間、40日余り、富良野周辺を飛びまわった。
那須野さんの悪戦苦闘のおかげで曲がりなりにも映像の方は撮り終った。次は「音」である。ここでまた、偶然が作用した。ぼくの中学校の同級生に浜田均というジャズヴァイビストがいるのだけれど、人伝に教えてもらった電話番号を押してみると、本人が出た。事情を話して、富良野で子供時代を過ごした浜田に是非とも音楽をつけてもらいたい。しかも、どうやったらビデオに音がつくのかも分からないから、すべて浜田が考えてやってほしい、もちろんお金が最もかからない方法でと。いくら同胞のよしみとは言え図々しくお願いした。
浜田は作曲、ミュージシャン集め、演奏、スタジオの手配、スケジュールの調整、ギャラの配分などすべてをやってくれた。ぼくがやったことと言えば、少ない予算を渡すことと、スタジオの片隅で那須野さんと一緒にただただ感動しながら、演奏を聞いているだけだった。