我がクリニックの待合室には、開設当時(1997年)壁面に何枚かの「写楽の絵」が並んでいた(勿論複製であるが...)*。写楽は好きである。機会があるたびに、本物の写楽絵には接してきたつもりである。しかし写楽愛好家には、お叱りを受けるかも知れない。何故なら、最初はいわゆる写楽別人説「謎の絵師写楽」の部分に興味を持ち、しばらくの間写楽を観ないで、読んできたからである。そして、別人説に出会ったのも、1984年にNHKテレビで池田満寿夫氏が発表した中村此蔵説が最初で(NHK特集謎の絵師写楽)、かなり遅いほうである。この中村此蔵説は、第1期大首絵28枚のみが写楽作品で、かつ画家が自作の中で必ず自画像を描くという論理で、中村此蔵の絵が他の作品と異なるため(特に目の描き方)、これこそが写楽の自画像であるとした説である。今回は、この「写楽の目」の描き方から話を進めて、写楽別人説を展開する...つもりではない。
これもNHKテレビの話。1995年11月に放送された「写楽 200年の旅路」という番組である。内容の一部を紹介しよう。
近代映画の父と言われたロシアの映画監督セルゲイ・エイゼンシュテインは、新しい映画表現の手本を古代芸術の中に探し求めていた時期がある。この時出会ったのが、日本の浮世絵であり、映画手法の先駆者として目の前に現れた写楽だったのである。
エイゼンシュテインは、かっと見開いた「写楽の目」に着目し、その動きを分析した結果、写楽絵では瞳(ひとみ)が全て眉間に寄っていることを発見した。その後医学書を検討し、怒りによって血や筋肉にアドレナリンが分泌されると、筋肉は緊張し瞳は鼻の方に寄り、そのため人は怒りで少し斜視になると考えた。そして、歌舞伎俳優はそれに気付き、グロテスクまでに目の動きを強調して、怒りを表現したとしたのである。
このことから番組では、写楽がエイゼンシュテインに表現法を教え、エイゼンシュテインが映画俳優に怒りの表現法を伝えたという結論を導き出している。
自律神経は、全ての内臓(心臓、肺、胃、腸、膀胱、子宮など)や腺(内分泌腺、汗腺、唾液腺など)、血管などを支配し、自分の意志とは無関係に、生体のホメオスターシスを維持するのに必要な機能を行っている。即ち、呼吸、循環、物質代謝、体温調節、消化、分泌、生殖など、無意識に行われている機能を調節しているのである。この自律神経は、交感神経と副交感神経から成っており、それぞれの器官において、機能を抑制的あるいは促進的に働かせる相反する作用を持っている。例えば、交感神経が心臓の動きを早くする作用を持ち、副交感神経が逆に遅くするといった具合である。交感神経は、アドレナリン作動性自律神経と言われ、この神経が興奮すると、神経の末端からアドレナリン、ノルアドレナリンの放出が起こり、その支配器官に到達し種々の作用をするのである。
一般に交感神経は身体を活動的にする働きを持ち、緊急事態に対処する際の神経とも言うことができる。つまり、緊急事態になると、かっと目を開き(瞳孔散大)、酸素を多く取り込むために気管支が拡張し、心臓もドキドキし、汗も出るのである。先の理論からいくと、写楽絵が、強烈な感情的緊張(怒り)即ち交感神経の興奮を表現していると考えることもできるのだろう。
エイゼンシュテインの結論に対する問題点もある。
人の両目の中央前方に物体を置き、この物体を見つめながら、次第に眼に近づけると、両眼球は物体の動きにつれて内方に向かう。これを輻輳(ふくそう)反射という。この輻輳反射は、意識的に行うことができ、怒りにより瞳が鼻の方に寄るようなことが交感神経作用とは言い難く、したがってアドレナリン分泌とも無関係となる(...遠くのものが突然近づいてくるときには反射的にも行われる可能性もあるが、この際は副交感神経核が関与していると言われている)。斜視に関しても一言付け加えたいところであるが、専門外でもあり、写楽の役者絵の表現法(感情的緊張状態)の的確な判断材料を提供してくれたエイゼンシュテインには敬服しているので、戯言は避けたい。
明治43年ドイツのユリウス・クルトが著した「Sharaku」**は、世界的な写楽ブームと日本における写楽探し、写楽別人説の出発点となった。クルトの本に対する評価には、巷で意見の分かれるところであるが、写楽を世界的に紹介し、写楽こそレンブラント、ベラスケスと並ぶ世界の三大肖像画家の一人であると評価した点には、異論がないようである。肖像画というと、ダ・ビンチの「モナリザ」しか頭に浮かばない私みたいな者が、このような文を書くこと自体、本当に失礼な話なのである。失礼の序でに、そのモナリザに関連して一言。
「モナリザ仮説(MONA LISA hypothesis)」というものがある。
Most Obesity kNown Are Low In Sympathetic Activity"(肥満者の大多数は交感神経の働きが低下している)という文章の大文字部分を繋げてMONALISA(モナリザ)仮説である。1990年神戸で開催された国際肥満学会で、肥満と自律神経の関係について、米国のジョージ・ブレイ教授により提唱されたもので、身体活動程度の低い日常生活を続けていると、交感神経系の働きが低下し、摂取量は増加し、かつ消費エネルギーも低下し肥満をおこすという仮説である。
写楽を鑑賞すると、交感神経系が緊張し、モナリザでは逆に低下する...という話ではないので、念のため。 (2025年2月一部改変)
*現在は富良野に移住され2000年に亡くなられた小野州一先生の作品を展示していますが、待合室の本棚には、写楽作品集と2010年にサントリー美術館で開催された絵画展カタログ(歌麿・写楽の仕掛け人〜その名は蔦屋重三郎)などが並べられています。
**写楽SHARAKU:ユリウス・クルト (定村忠士・蒲生潤二朗訳)、アダチ版画研究所
〒076-0018
北海道富良野市弥生町6番31号
TEL 0167-39-1133
FAX 0167-23-6672