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昨日の夜、母親から電話があった。 「忠弘、浜田くんの、お前が写っている、随分イイ男に撮れている・・・」 「あぁ、浜田のコンサートでみんなに配ったカタログ」 「それ、それ。それ持ってきてほしい」 姉もコンサートに来てくれたのだが、カタログを母親に見せたらしい。姉はちゃんと読みたいので、持って帰ったらしい。 実はこのカタログは、オフィスフラノで制作させてもらったものだ。時間もかかったし、大変だったけれど、浜田(ハマキン)の今までの人生の集大成と言える貴重なカタログだけに、一生懸命やらせてもらった。 その中に、母親が「イイ男に撮れている」(子供が幾つになっても親の贔屓目)と言っていた写真と共に、私が書いた文章が載っている。 下記に転載する。
浜田とは富良野東中学校の同級生だ。その頃から、私たちとは“格”が違っていた。頭が良くて、身体が大きく、正義感が強い。学芸会では今につながるマリンバを演奏し、喝采を浴びていた。 それだけではない。私が一番印象に残っているのは、3年生のときの弁論大会。確か、題目は「先入観について」だったと思うが、「同じ中学生で、こんなに差がつくものなのか」と、自虐的な感情すらわくほど、素晴らしい内容だった。 浜田とは、友達ではなかった。むしろキライだったかもしれない。いや、正確に言うと、好き嫌いではなく、私とは別の世界に住んでいるヤツと思っていた。大学を卒業してUターンで富良野に戻った頃、中学の同級生がスイングジャーナルに載っている浜田を自慢げに教えてくれた。私は、「ああ、あの浜田なら、雑誌に載ったって不思議じゃない」と、富良野始まって以来の音楽家の誕生に、さほど驚かなかった。 私は昭和58年にオフィスフラノという企画会社を設立し、昭和62年にビデオ「彩(いろどり)の大地−Furano−」を制作した。撮影したのは、写真家の那須野ゆたかさん。色々な経緯はあったが、とにかく映像は完成した。無謀にも、その映像にオリジナルの音楽をつけたいと思った。そのとき浮かんだのが浜田だった。中学の同級生以外に接点はなかった。送ったビデオの映像を見て、浜田は作曲し、音楽をプロデュースすること引き受けてくれた。それ以来、浜田との付き合いはずっと続いている。これまで、そのビデオの他に、CD「夢のとき−Furano−」と「Holy Hill Furano」、DVD「夢のとき−Furano−」などを一緒に制作している。 平成12年5月からはコミュニティFMラジオふらので、「オダジーとハマキンの富良野が好き!」という番組も楽しく放送している。 さて、「浜田均還暦記念音楽会」だが、浜田が子供の頃から綿々と培ってきた集大成としての音楽を、一年を通じて色々な趣向で聞けることは、大変うれしいし、大きな喜びだ。 我が同級生の自慢の音楽家、浜田均の益々の活躍を期待する。還暦記念音楽会、おめでとう! |
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